勝沼信元
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勝沼 信元(かつぬま のぶもと、? - 永禄3年11月3日[1](1560年11月20日))は、戦国時代の武将。甲斐武田家の一族で、武田信虎の甥。武田信玄の従兄弟に当たる。仮名は五郎。受領名は丹波守を称したとされるが[1]、『勝山記』では相模守となっている。父は勝沼信友で嫡子。兄弟姉妹に加藤信厚、松の葉(理慶尼)。子に信就、信定、信景。
生涯[編集]
天文4年(1535年)8月に行なわれた郡内・山中合戦で父が戦死したため、家督を継いだ[1]。武田晴信初期においては晴信の同母弟・武田信繁や義兄に当たる穴山信友らと共に一門衆として重用されたと見られている[1]。
永禄3年(1560年)9月に長尾景虎が北条氏康を攻めるために関東に侵攻した際、景虎に応じて氏康から離反した武蔵の藤田氏に同調して信元も信玄から離反した[1]。このため11月3日に信玄の軍勢に攻め殺された[1]。法名は不山道存庵主[1]。
なぜ信元が信玄から離反したか理由は不明だが、当時の武田家には信濃先方衆の仁科氏や海野氏などが信玄に謀反の罪で成敗されるなど不穏な空気が流れており[2]、この流れは義信事件にまでつながる影響を成した。
妹とされる理慶尼は信元の娘ともされ、信元の離反により出家して江戸時代まで生き延びている[1]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 柴辻俊六 編 『武田信玄大事典』(新人物往来社、2000年)ISBN 4-404-02874-1
- 『戦国驍将・知将・奇将伝 ― 乱世を駆けた62人の生き様・死に様』歴史群像編集部編、2007年