郡内・山中合戦
郡内・山中合戦(ぐんない・やまなかかっせん)とは、天文4年8月22日(1535年9月19日)に勝沼信友率いる武田軍と北条氏綱率いる北条軍との間で行われた合戦である。戦場は現在の山梨県富士吉田市で、北条氏綱軍が勝利した。
経歴[編集]
天文4年(1535年)7月、駿河侵攻を図った武田信虎は万沢口で今川氏輝軍と対峙した(万沢口の戦い)。8月、氏輝の同盟者である北条氏綱は2万4000の大軍を率いて信虎不在の甲斐山中(現在の山中湖村)への侵攻を図った[1]。信虎不在のため、留守の武田軍は2000人ほどしかなく、迎え撃ったのは信虎の弟・勝沼信友や小山田信有、小山田有誠、小林左京亮、侍者周防殿・下の検断殿らであった[1]。しかし兵力の多寡は明らかであり、武田軍は信有を除く諸将全てが戦死する大敗を喫し、270名が戦死した[1]。勢いに乗った北条軍は同日に上吉田を焼き払い、翌日に下吉田を焼き払った[1]。このため、甲斐は北条軍に侵略される寸前にまで追い込まれる。
信虎は氏綱に対抗するため、享禄3年(1530年)に扇谷上杉氏の上杉朝興と同盟を結び、朝興の叔母で山内上杉氏の上杉憲房の未亡人を妻に迎えていた。天文2年(1533年)には朝興の娘と嫡子の晴信との間に婚姻を成立させていた(ただし朝興の娘は翌年に胎児もろとも死去)[2]。扇谷上杉朝興にとって氏綱は宿敵であり、その氏綱が甲斐に出兵して南関東が手薄になっている隙をついて武蔵川越から相模小田原へ向けて侵攻し、大礒や平塚付近で放火を繰り返した。このため氏綱は8月24日に甲斐から撤退して小田原へ帰還したため[1]、甲斐は侵略されるのを免れることができた。
信虎はこの後、今川氏輝や北条氏綱と対抗するためにそれまで敵対していた信濃の諏訪頼満との和睦を図り、9月17日に諏訪境川で面会している[3]。
またこの翌年に今川氏輝が急死し、それにより今川家で花倉の乱と称される内乱がおきて今川義元が新当主になるに及び、武田・今川間で婚姻同盟が成立して外交情勢が著しく変貌することになる。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 柴辻俊六 編『武田信虎のすべて』(新人物往来社、2007年) ISBN 978-4-404-03423-6