山崎進
山崎 進(やまざき すすむ、1908年8月18日[1] - 1986年2月17日)は、経済学者。満鉄調査部員、九州経済調査協会理事、日本生産性本部職員(生産性研究所主任研究員、消費者教育室長)、日本消費者協会専務理事、相模女子大学学長。
飯塚炭鉱の雇われ経営者で玄洋社社員の山崎和三郎の実子[2][3]。佐賀県の炭鉱主の山口慶八の娘婿[3][4]。自民党衆議院議員の山崎拓の実父[3][5]。物理学者の山口成人(山口慶八の長男)の義兄[4][6]。
経歴[編集]
福岡市生まれ[7]。飯塚炭鉱の雇われ経営者で玄洋社社員の山崎和三郎の長男[6]。福岡県立嘉穂中学校、旧制第一高等学校を経て[3][注 1]、1933年東京帝国大学経済学部経済学科卒業[8]。東大経済学部で有澤廣巳のゼミに所属[3]。東洋棉花を経て、1936年4月満鉄に入社。経済調査会調査員、産業部資料室、産業部庶務課兼商工課、新京支社上海事務所調査課を経て、1939年4月上海事務所調査室第7係主任[8]。満鉄調査部で華北一帯の経済調査に専念[2][注 2]。
1941年満鉄を退社[5]、義父の山口慶八が経営する小城炭鉱(1954年山口鉱山株式会社設立時に吸収合併)の理事となった[注 3]。1943年から2年間、現場の鉱長として働く[2]。炭鉱経営のかたわら、1946年10月に波多野鼎らとともに九州経済調査協会(九経調)を設立し[5]、理事に選出。11月の第1回理事会で初代書記長、1947年5月の総会で常任理事に選出[10]。九経調事務局長の松岡瑞雄とともに1947年10月の経済同友会九州支部(1948年6月に福岡経済同友会に改組)設立を主導し、昭和29年度(1954年)まで常任幹事を務めた[11]。山口鉱山専務を務めるかたわら、1951年に肥後炭田開発社長にも就任した。炭鉱の斜陽化に伴い、三菱鉱山と共同経営・多角化経営の契約を交わしたが、山口慶八の判断で破棄せざるをえず、1957年に山口鉱山は協和銀行の管理下に置かれた[9][注 4]。1954年山口鉱山専務を辞任[6]。
1955年財団法人日本生産性本部設立と同時に参事。1956年4月に生産性本部に設置された生産性研究所(野田信夫所長)の主任研究員。1958年3月から4月に生産性本部のアメリカ経済調査専門視察団(有澤廣巳団長)幹事として訪米し、消費者問題の調査を担当した。以後、消費者教育に取り組み[12]、1960年1月に生産性本部に設置された消費者教育室の初代室長に就任した[13]。1961年9月に財団法人日本消費者協会(足立正会長、野田信夫理事長)の設立に参画し[5]、初代専務理事に就任した[13]。1960年より相模女子大学、日本女子大学などの非常勤講師[7]。1964年10月に日本消費者協会専務理事を辞任し[6]、家庭科教育研究に専念[14]。
1965~1969年明和女子短期大学、土浦短期大学教授。1969~1983年相模女子大学教授[7]。食物学科・家政学科で家政学原論・家族関係の科目を担当。学芸学部長(1973~1975年)、学長事務取扱(1973~1975年、1975~1976年)、短期大学部長(1975~1976年)、学長(1976~1982年)、学校法人相模女子大学理事(1975年~)を歴任[15][7]。1973年財団法人日本女子社会教育会理事[7]、家庭科学研究所第3代目所長[16]。1983年第一経済大学教授[7]。
佐賀県労働委員(使用者委員、1946年2月~7月)[17]、日本消費生活コンサルタント協会理事長[18]、日本消費者協会理事、日本レクリエーション研究協会理事[1][19]、同副会長[19]、日本家庭問題研究協会理事も務めた[1][19]。
1986年2月17日、心不全のため急逝[16]。没後、正五位勲三等旭日章を受章。葬儀では長男の山崎拓が属する自民党渡辺派の渡辺美智雄が弔辞を読んだ[20]。
人物[編集]
経営学者の野田信夫とともに日本における消費者教育の先導者[12]、日本消費者協会のキーパーソンの役割を担った[14]。消費者教育のほか、家政学者の横山光子、松島千代野などとともに日本におけるヒーブ(企業内家政学士)の普及・研究でも活躍した[16]。1960年以降、相模女子大学、日本女子大学、女子栄養大学、明和女子短期大学、土浦短期大学などの講師・教授として、家政学原論、家庭管理学、商品学、経済学(一般)などを担任した[19]。晩年は「人間の生活を総合的にシステム的に解明する科学」として経済学と家政学の統合を図った[21]。
著書[編集]
単著[編集]
- 『生産性向上と成果の分配』(述、労働文化研究所出版部[労働文化シリーズ]、1959年)
- 『生産性と国民生活』(日本生産性本部[文部省認定通信教育生産性労働大学通信講座テキスト]、1966年)
- 『家政学原論――これからの生活経営の考え方』(光生館、1967年、4版1970年)
- 『消費者商品学――消費者教育の理論』(光生館、1967年)
- 『消費者経済学――家計収支の分析と家庭経営の理論』(光生館、1968年、訂正版1970年、改訂1978年、改訂3版訂正1981年、改訂4版1982年)
- 『生産性と国民生活――人間能力開発時代を生き抜くために』(日本生産性本部生産性労働資料センター[生産性労働文庫]、1970年)
- 『情報社会と生活経済学』(酒井書店、1985年)
- 『「家庭科学」と山崎進』(木村静枝、武長脩行編纂、1993年)
共著[編集]
- 『消費者商品学――消費者教育の理論』(木村静枝共著、光生館、1979年、新版1982年)
編著[編集]
- 『レジャー時代』(編、東洋経済新報社、1962年)
訳書[編集]
- J.T.ランディス、M.G.ランディス著、山本キク監修『結婚の理論――結婚を成功させるために』(家政教育社、1969年)
脚注[編集]
注釈[編集]
- ↑ 『労働人事名鑑 改訂版』(社会労働協会、1960年)によると、1926年芝中学校卒業。嘉穂中、一高の記載なし。
- ↑ 『政界再編の鍵を握る男たち』によると、満州国の財政の分析が専門。論文「満州国財政の研究」を『満鉄調査月報』に発表した[3]。
- ↑ 『人事興信録 第23版 下』によると、1941年山口鉱山専務理事[6]。『政界再編の鍵を握る男たち』によると、山口鉱山の専務取締役となった[9]。『日本経済新報』1952年2月中旬号によると、小城炭鉱常務理事[4]。
- ↑ 『政界再編の鍵を握る男たち』によると、のちに協和銀行は山口慶八に経営権を返還した。1963年に小城炭鉱が閉山した後、山崎拓が残務整理を行った。
出典[編集]
- ↑ a b c 山崎進『消費者商品学――消費者教育の理論』光生館、1967年
- ↑ a b c 山本正雄『財界を支配する百人』同友社、1948年、131-132頁
- ↑ a b c d e f 大下英治『政界再編の鍵を握る男たち――平成・ニューリーダー列伝』政界出版社、1994年、118-121頁
- ↑ a b c 「顏 小城炭鉱社長 山口慶八氏」『日本経済新報』第5巻第5号、1952年2月
- ↑ a b c d 読売新聞西部本社編『九州・山口の人脈 経済界』読売新聞西部本社、1974年、39頁
- ↑ a b c d e 人事興信所編『人事興信録 第23版 下』人事興信所、1966年、や112頁
- ↑ a b c d e f 山崎進『情報社会と生活経済学』酒井書店、1985年
- ↑ a b 満蒙資料協会編『満洲紳士録 第2版』満蒙資料協会、1940年、1538-1539頁
- ↑ a b 大下英治『政界再編の鍵を握る男たち――平成・ニューリーダー列伝』政界出版社、1994年、124、133-134頁
- ↑ 『九州経済調査協会3年史』九州経済調査協会、1949年
- ↑ 『福岡経済同友会20年史』福岡経済同友会、1967年
- ↑ a b 西村隆男「わが国の消費者教育生成期に関する研究(第1報)(PDF)」『消費者教育』第15巻、1995年
- ↑ a b 『生産性運動30年史』日本生産性本部、1985年
- ↑ a b 満薗勇「「かしこい消費者」規範の歴史的位置――日本現代史の場合(PDF)」『社会政策』第14巻第1号、2022年
- ↑ 『相模女子大学八十年史』相模女子大学、1980年
- ↑ a b c 「訃報」『家庭科学』第53巻第4号、1986年4月
- ↑ 佐賀県地方労働委員会事務局編『佐賀県地方労働委員会40周年記念誌』佐賀県地方労働委員会、1986年、157頁
- ↑ 人事興信所編『全日本紳士録 昭和40年版』人事興信所、1965年、や45頁
- ↑ a b c d 山崎進『消費者経済学――家計収支の分析と家庭経営の理論』光生館、改訂1978年
- ↑ 大下英治『政界再編の鍵を握る男たち――平成・ニューリーダー列伝』政界出版社、1994年、173頁
- ↑ 木村静枝「遺稿掲載に当って」『家庭科学』第54巻第2号、1987年10月
関連文献[編集]
- 山崎進先生退官記念研究集録編集委員会編『山崎進先生退官記念研究集録』(山崎進先生退官記念行事事務局、1972年)
- 浜正雄、加藤敬二『激流に生きる浜正雄』(西日本新聞社、1981年)
- 早野透、山崎拓「落日燃ゆの気概を秘めて」(『一冊の本』1999年4月号)
- 日本家政学会家政学原論部会若手研究者による『家政学原論』を読む会著、八幡(谷口)彩子、上村協子、川上雅子編集『若手研究者が読む『家政学原論』2006』(家政教育社、2006年)