上西正雄
上西 正雄(うえにし まさお、1925年2月1日 - 1982年6月6日)は、労働運動家。全日本労働総同盟(同盟)副書記長。民社党員[1]。
経歴[編集]
大阪市生まれ。1942年旧制高津中学校卒業[2]。関西学院大学法学部政治学科在学中の1946年3月に日本農民組合大阪府支部連合会に所属し[3]、農民運動家として出発。まもなく金正米吉の知遇を得て労働運動の世界に入った[4]。1948年4月に同大学を卒業後[注 1]、総同盟大阪連合会所属の全国金属産業労働組合同盟(全金同盟)関西事務局常任書記[3]。1949年独立青年同盟(独青)の結成に大阪で参加[5]。1949年に三井玉野造船の争議で民主化運動が起きた際には約1ヶ月現地で支援し、社宅を巡って共産党批判を行った[6][7]。1949年11月の総同盟第4回大会で独青問題が論争となり、左派が独青をファッショと批判する中、独青を擁護した[6][7]。
総同盟解体に反対し、刷新強化運動に従事[3]、1951年2月の総同盟解体反対大阪連合会大会で大阪連合会副主事[8]。1951年3月全国金属産業労働組合同盟(全金同盟)青婦対策部長[9]。1952年関西労働金庫の創立を準備[6][7]。1954年6月全労大阪会議常任幹事[2]。1954年10月全国交通運輸産業労働組合同盟(全交運同盟)を結成し、関西書記局長と大阪自動車運輸労働組合書記長を兼任[3]。
1955年10月の総同盟第10回全国大会で中央執行委員、1956年11月の総同盟第11回全国大会で常任中執に選出され[注 2]、青年婦人対策部長(1955~1956年)、青年対策部長兼婦人対策部長(1956~1959年)、組織部長(1959~1964年)を務め、1962年10月の総同盟第17回全国大会で主事[10]。この間、1956年3月生産性関西地方本部の創立に尽力し[6]、理事[11]。1960年10月全労大阪会議事務局長[12][注 3]。1962年総同盟大阪府連合会主事[13][注 4]。1962年6月大阪同盟会議結成とともに事務局長[3]。
1963年12月同盟結成のための統一委員会常任幹事となり[3]、1964年11月の同盟結成の中心的役割を果たした[3][7]。1964年11月同盟副書記長、総務局長。1972年同盟副書記長(専任)[1]。同盟は「八二・八三年度運動方針」で自民党と同じ「総合安全保障政策の推進」を掲げ「西側の一員」として「防衛力の整備」をうたったが、上西が防衛方針の作成の中心になったといわれる[14]。
社会党大阪府連政策審議会委員[2]、日本労働者教育協会理事[15]、全国文化運動協会(全文協)副会長(1976~1982年)も務めた[16]。
著書[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ↑ a b c d e 『最新労働組合役員名簿――70年代労働組合のリーダー』日刊労働通信社、1973年、120頁
- ↑ a b c 『労働人事名鑑 改訂版』社会労働協会、1960年、405頁
- ↑ a b c d e f g h i 「上西正雄副書記長が急逝」『同盟』第288号、1982年7月
- ↑ a b 中村正雄「民主主義陣営の大きな痛手」『同盟』第289号、1982年8月
- ↑ 伊藤郁男『鷹の目――伊藤郁男の視点』郁友政治経済研究会、1984年、154-155頁
- ↑ a b c d 天池清次「上西正雄君を悼む――プロに徹した運動家」『同盟』第288号、1982年7月
- ↑ a b c d 宇佐美忠信「運動にかけた情熱と遺志を継承」『同盟』第289号、1982年8月
- ↑ 総同盟五十年史刊行委員会編『金正米吉追想録』総同盟五十年史刊行委員会、1969年、221頁
- ↑ 全金同盟史編集委員会編『全金同盟史――大金属産業組織への総結集-25年の闘い』全金同盟、1973年、240頁
- ↑ 総同盟五十年史刊行委員会編『総同盟五十年史 第3巻』日本労働組合総同盟、1968年
- ↑ 関西生産性本部編『関西生産性本部二十年史』関西生産性本部、1976年、6頁
- ↑ 「大阪労働情勢 11月」『月刊労働』第143号、1960年12月
- ↑ 天池清次「同盟運動への功績大なるもの」『同盟』第289号、1982年8月
- ↑ 青木慧『政労使秘団――組織と人脈』汐文社、1983年、157頁
- ↑ 総同盟五十年史刊行委員会編『総同盟五十年史 第3巻』日本労働組合総同盟、1968年、1286頁
- ↑ メールレポート「友愛労働歴史館たより」第102号(PDF)友愛労働歴史館、2016年1月18日
関連文献[編集]
- 民主社会主義研究会議編『大系 民主社会主義 第4巻 労働』(文藝春秋、1980年)
- 『勇気ある選択――民主社会主義青年運動』(民主社会主義青年運動史刊行委員会、1982年)