分部光嘉
分部 光嘉 わけべ みつよし | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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分部 光嘉(わけべ みつよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。伊勢の国衆である長野氏の一族・細野藤光の子として生まれ、同族の分部氏を継ぐ。長野家の養子となった織田信包(織田信長の弟)に仕えて伊勢上野城主となり、のちに豊臣政権下で独立大名となった。関ヶ原の戦いの際には東軍に属し、安濃津城での籠城戦(安濃津城の戦い)で功績を挙げ、伊勢上野藩2万石の大名となった。
生涯[編集]
細野藤光の次男で、分部光高の養子となり、分部家の家督を継承した。尾張の織田信長による北伊勢侵攻の際、光嘉は信長との和議を主張し、長野工藤氏の当主として擁立されていた長野具藤を追放し、信長の弟・織田信包を長野工藤家の養子として迎えて当主とした上で織田家の傘下に入った。元亀元年(1570年)、伊勢上野城を築城し、天正8年(1580年)にその城代となる[1]。
信長没後は羽柴秀吉に仕えるが、しばらくは信包の下にいた。文禄4年(1595年)に信包の下を離れることになり、秀吉に仕官してこの際に豊臣姓を下賜され、さらに従五位下左京亮に叙任された上、徳川家康の推挙を受けて赤母衣衆の一員に列した上、正式に上野城主に任命されて1万石の大名となった[1]。
慶長5年(1600年)、家康が会津征伐を開始するとそれに従軍する。しかしその最中に畿内で石田三成ら西軍が挙兵したため、光嘉は東軍に属した伊勢に所領を持つ諸大名と共に急ぎ帰国して守備を固めた。西軍は伊勢方面に毛利秀元や吉川広家らを大将とした3万の軍勢を派遣しており、光嘉の上野城はこれに対してわずか1700人余りだった。このため、光嘉は単独では抵抗できないと見て安濃津城に逃れて抗戦し、西軍が攻めて来ると果敢に抗戦。打って出て大軍を迎え撃ち、毛利輝元の家臣・宍戸元次と一騎討ちをするほどだった。この一騎討ちは双方手傷を負って引き分けに終わるが、戦いそのものに影響は無く、結局安濃津城は西軍の大軍の前に抵抗できずに開城となった。開城後、光嘉は富田信高と共に現在の津市にある専修寺で剃髪して出家した上で、高野山に向かった[1]。
関ヶ原が東軍の勝利に終わると、家康からその戦功を認められて高野山からの帰還を許され、さらに大名として復帰した上、旧領に1万石を加増して2万石となることも認められた。こうして伊勢上野藩主となった光嘉であるが、その翌年の11月29日に病死している。死因は前年の合戦の一騎討ちの際に脇腹に受けた戦傷による病死であった。享年50[1]。
光嘉には息子に光勝がいたが早世していたため、娘が生んだ男子、すなわち外孫の光信を養子に迎えて、跡を継がせている。
系譜[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]