久武親信
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久武 親信(ひさたけ ちかのぶ、? - 天正7年5月21日(1579年6月15日))は、安土桃山時代の武将。長宗我部氏の家臣。通称は内蔵助。名は親定ともいう[1]。
概要[編集]
誠実で思慮深い人物のため、長宗我部元親から信任されて土佐国土佐郡久万に所領を与えられ、後に高岡郡佐川城主に任命された[1]。
時期不明だが、有馬温泉に入湯中に織田信長の重臣だった羽柴秀吉と出会い、秀吉の人物を知って傾倒したという逸話がある[1]。
天正5年(1577年)、元親から南伊予国の軍代に任命されて南予方面に進出し、河原崎氏を討ち、宇和郡や喜多郡の諸豪族を次々と降す功績を立てる。天正7年(1579年)、元親から南予統一の命令を受けてその地域の軍事的な権限を一任され、配下の兵力と幡多郡の兵力およそ7000を率いて南予の宇和郡の岡本城や大森城を攻撃。岡本城攻撃中の5月21日、敵方の名将・土居清良の反撃を受けて鉄砲により射殺された[1]。
久武家の家督は弟の親直が継いだが[2]、この親直のことを親信は快く思っておらず、生前から元親に「自身に何かあっても、弟めはお取立てしないように」と言い残していたという。元親はこれを聞き入れずに親直を重用した結果、長宗我部家は衰運への道をたどることになる。
親信の遺骸は高岡郡佐川の乗台寺に葬られ、同時に親直使用の武器甲冑なども収められた。菩提寺ははじめ土佐郡久万の香安寺金性院であったが、佐川移封後に乗台寺を菩提寺にするように親信自身が定めたといわれる[1]。