ベネチア

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ベネチアとは、イタリア北東部、アドリア海に臨む港湾都市である。150の運河が街中に張り巡らされた「水の都」であり、ベネチア映画祭でも知られる場所である。ヴェネツィアVenezia)とも書かれる。英語ではヴェニスVenice)という。面積は416平方キロメートル。標高は0メートル。人口は26万1000人(2011年の統計)。

ベネチアにあこがれて島根県松江市をはじめ「水の都」を名乗る街も多い。だけれども、最近は本家のベネチアは水質汚染がひどいらしい。

概要[編集]

イタリア北東部のヴェネト州ヴェネツィア県の都市で県都であり、ヴェネト州州都でもある。愛称は、「水の都」の他に「アドリア海の女王」「 アドリア海の真珠」等。イタリア本土からおよそ4キロにあるヴェネツィアの潟の上に位置する河川の堆積作用によって形成された120に及ぶ潟から構成され、およそ150の運河が走り、それぞれを400以上の橋が繋いでいる。カナルグランデ(大運河)が逆S字型に3.8キロにわたって走り、都市を二分する。ジュデッカ島リード島ブラーノ島ムラーノ島もヴェネツィアの一部である。

歴史[編集]

歴史的にみると、6世紀ランゴバルド族の侵略から逃れた人々がこの潟に住み着いたことがベネチア(ヴェネツィア)の起源である。人々は潟に木の杭を打ち、イストリアなどから持ち寄られた石材を積んで地盤とした。最初は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下に入っていたが、次第に交易による富と強力な海軍を形成し、その経済力と軍事力を背景にして「アドリア海の女王」と称されるまでに実力を付け、697年には遂に東ローマ帝国から独立してベネチア共和国を建国した。建国当初は国家体制の整備などもあり、東ローマ帝国を宗主国と認めながらも当時としては珍しい非世襲による統領(指導者・ドゥーチェ)を選挙で決定するという共和政による政治体制を確立する。都市の中心が現在のリアルトに移ったのもこの頃、9世紀のことである。

ベネチア共和国は海運国家として交易における莫大な富で発展を遂げてゆく。そのため海軍力は当時としてはかなり強力であり、10世紀以降は海上貿易においてイスラム諸国と交易を重ねて当時の欧州国家の中では稀に見る発展を遂げた。宗主国である東ローマ帝国は皇帝継承争いなど内紛を重ねて次第に衰退。11世紀から開始された十字軍においては巧みに東西交易圏を確立して宗主国である東ローマ帝国を凌駕する特権を獲得・拡張した。そして13世紀においては第4回十字軍を巧みに利用して東ローマ帝国の内紛に介入し、遂には帝国の首都であるコンスタンティノポリスを征服して一時的に東ローマ帝国を滅ぼすに至った。ただしベネチア共和国はあくまで海運・交易にしか関心が無かったため、東ローマ帝国の旧領にはラテン帝国を建国させ、自らはエーゲ海諸島を植民地にして海上交易を完全に支配下に置くに留まった。

この事変でベネチア共和国は一気に大国に成長し、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ2世ローマ教皇が対立して抗争した際にはローマ教皇に属してロンバルディア同盟を支援するなど、西欧の大国と互角以上にやりあえるほどの実力を身につけていた。

そして13世紀半ばにモンゴル帝国が現れて東西交易路が確立すると、ベネチア商人の中には東アジアに向かう者も多く現れた。この中で特に著名なのが『東方見聞録』の著者でありモンゴル帝国の第5代ハーンであるフビライに仕えたことでも有名なマルコ・ポーロである。だが、貿易の拡大はジェノバとの抗争を激化させ、ベネチア共和国は1世紀にわたり4度もジェノバと戦争を繰り返すようになる。マルコ・ポーロもこの戦争に巻き込まれて捕虜となり、この時に獄中で『東方見聞録』を書いたといわれている。

この戦争においてベネチアは勝利こそしたが疲弊は否めず、14世紀になると都市貴族の10人委員会による寡頭政治が確立した。さらに統領の中にはこれに反して独裁・世襲の移行を図った者もいたが尽く失敗している。このように次第に共和国は内部から揺らぎだした。

1381年、ジェノバとの戦いではベネチアの英雄・名将で名高いベットール・ピサーニの活躍でキオッジャの戦いで勝利し、これにより地中海の覇権を固めたベネチアはイタリア本土にも領土を拡張し、バルカン黒海沿岸・小アジアにも植民地を得て再びの全盛期を迎えた。だが、これが最後の栄華でもあった。小アジアから勃興したオスマン・トルコの進出でそれら獲得した植民地が次第に奪われてゆき、15世紀に入ると大航海時代を迎えてポルトガルインド航路を発見し、16世紀になると産業革命が発生して東西貿易の中継地としての優位性まで失って、一気に凋落へと突き進んでゆく。キプロスクレタなど東地中海の植民地もオスマン・トルコに奪われて衰退の道を歩んだベネチア共和国は最終的に1797年フランスナポレオン・ボナパルトによって滅ぼされてしまった。その後、ベネチアはオーストリアに支配され、1866年イタリア王国に併合された。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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