ええじゃないか
ええじゃないかとは、江戸時代末期(幕末)の慶応3年(1867年)秋から慶応4年(1868年)春にかけて発生した民衆による踊りである。大政奉還の時期とちょうど重なるため、近年では討幕派による民衆の扇動であったとする説も浮上している。
概要[編集]
慶応3年(1867年)に入ると、江戸幕府の衰退と討幕派の拡大は誰の目にも明らかになっていた。このため、同年の10月に征夷大将軍・徳川慶喜は明治天皇に対して大政奉還を行ない、こうして江戸幕府は滅亡を迎えた。
そんな中で、京都ではええじゃないか、が始まった。これは突然天からお札が降り、人々はこれを何かめでたいことの前兆であるとして、農作業や家業を放り出して狂ったように踊り出したという。歌詞は記録によると以下のようなものである。
- 「ええじゃないか、ええじゃないか、くさいものに紙を貼れ。破れたらまた貼れ。ええじゃないか、ええじゃないか」
そして、お札が降ったとされる家では門前に神棚を設え、3日3晩とか色々期日を決めて振る舞い酒や撒き銭、撒き餅などの大盤振る舞いをしたという。男性は女装したり、女性は男装したり、老女は娘に変装したり、三味線や太鼓に合わせて昼も夜も無く熱狂的に踊り続けたという。降ってくるのは主に伊勢神宮のお札だったが、所によってはその土地の神社のお札や近隣の寺院の仏像、掛軸や金銭、大きな石など様々なものが降ったケースもあったとされる。また、東海地方の遠州や四国の阿波国では、美女が天下りしてきたとまで騒いだという。
記録で確実に確認できるわけではないが、最も早くこの奇妙な活動が始まったのは、よりによって徳川氏の故郷である三河国であったという。そして東海道を起点にして東西に拡大し、冬までには広島藩から四国、山陰、江戸にまで拡大していたようである。
ただ、奇妙なことにこの活動は九州にまで拡大していない。四国にも波及はしたが阿波や伊予国など一部のみで、それ以上は波及していない。そして、慶応4年(1868年)春になるとこの活動は全く鳴りを潜めてしまった。戊辰戦争の頃には街道筋では「ええじゃないか」のはやし言葉は全く聞かれなくなったという。
だが、この騒ぎにより日本の主要街道筋のほとんどが大パニックになり、倒幕派は京都での隠密活動がやりやすくなり、倒幕の機運が一気に高まったことは事実である。
ええじゃないかに対するそれぞれの評[編集]
- 「このお札降り(ええじゃないか)は、京都方(討幕派)の人々が人心を騒擾せしむるために施したる計略なり」(幕臣・福地源一郎)。
- 「どうもあれは討幕派(薩摩藩と長州藩)がやったんじゃないかと思うけれども、まだ種明しはされていない」(佐賀藩・大隈重信)。
- 「南方の大名たちによって行なわれた」(イギリスの副領事・ラウダー)。
状況証拠として、討幕派の西南諸藩にこの活動は拡大していない。ラウダーの評もそこから来ているものである。ただし、お札が自然に降ってきたりするはずがない。そのため、黒幕がいたと考えられている。黒幕としては西郷隆盛の命令を受けた相楽総三、益満休之助、伊牟田尚平から、岩倉具視の懐刀である玉松操、京都の討幕派と長州藩の連絡役を担当していた品川弥二郎、土佐藩の大江卓などが考えられているが、現時点まで黒幕が誰であるかは特定できていない。
外部リンク[編集]
- 京都の「ええじゃないか」について、南和男、駒澤史学 42, 1-17, 1990年9月
- 名古屋の「ええじゃないか」について、南和男、駒澤大學文學部研究紀要 51, 1-23, 1993年3月
- 「ええじゃないか」の民衆運動、渡辺良智, 青山學院女子短期大學紀要 50, 251-284, 1996-12-10