大江卓
大江 卓(おおえ たく、弘化4年9月25日(1847年11月2日) - 大正10年(1921年)9月21日)は、日本の政治家・実業家。幼名は秀馬・斎原治一郎。後藤象二郎は義父にあたり、妻は後藤象二郎の次女の小苗である[1]。
生涯[編集]
土佐幡多郡柏島(現在の大月町)出身。宿毛伊賀家の家臣の子として生まれる[1]。23歳のときに神奈川県知事を務め、この頃から廃娼論を唱えた[1]。明治10年(1877年)に西南戦争が発生すると、それに乗じて林有造らと共に土佐で反乱を計画するが失敗して捕縛される[1](立志社の獄)。この事件で禁獄10年に処せられ、明治17年(1884年)に仮出獄する[1]。明治23年(1890年)には第1回衆議院議員総選挙に岩手県から出馬して当選する[1]。明治25年(1892年)の第2回衆議院議員総選挙では、立憲自由党に対する政府の大規模な選挙干渉によって落選する[1]。
その後、政治家から実業家に転身し、東京株式取引所頭取として株式市場を6年半に渡って取り仕切る[1]。さらに舅の後藤象二郎と共に蓬莱社を設立し、秩禄公債の売買で大きな利益を上げた[1]。その後藤が高島炭鉱の買収に失敗して莫大な損益を上げた際には、大掛かりな米の買占めを図ったりして市場と深く関与した[1]。大江は八重山鉱業会社を興し、帝国商業銀行や日本興業銀行の設立委員を務めた[1]。また、巴石油や夕張炭鉱の設立にも関与した。さらに朝鮮半島において京釜鉄道の建設に務めた[1]。
大正3年(1914年)に出家して天也と称する[1]。実業家として大きな成功を収めたばかりではなく、漢詩に親しむ文人でもあったという[1]。
大正10年(1921年)9月21日に死去。享年75。
大江は緻密な頭脳を持ち、多数と共同して事に当たるも一から十まで自説を貫かざれば承知せず、人を容れるの度量が乏しく、全ての人を眼下に見るの風あり。人物は純粋で人情が厚い醇なれども強情の短ありと評されている[1]。