鶴嶋雪嶺
鶴嶋 雪嶺(つるしま せつれい、1927年8月18日[1] - )は、経済学者。関西大学名誉教授。元関西大学経済学部教授。専攻は経済発展論[1][2][注 1]。筆名・岡谷進。元日本共産党員。日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)政治局員[4]。
経歴[編集]
シンガポール生まれ[1]。1945年旧制石川県立金沢第一中学校卒業[5]。陸軍士官学校を経て[6]、1947年旧制第四高等学校卒業[7]。1951年京都大学経済学部卒業。1956年京都大学大学院経済学研究科修士課程修了[3]。1956年関西大学経済学部専任講師、1960年同助教授、1968年同教授[6]、1979年同大学経済学部長(1980年まで)、1984年同大学大学院経済学研究科長(1986年まで)[1]。1998年退職し、名誉教授。国際在日韓国・朝鮮人研究会理事[3]。台湾史研究会会員[6]。
研究分野は経済発展論。日本の植民地統治との関連で中国朝鮮族を研究し、『中国朝鮮族の研究』(関西大学出版部、1997年)として出版した。ハワイ大学で開催された国際学会での研究発表は同大学朝鮮研究センター機関誌『KOREAN STUDIES』に掲載され、アメリカや韓国で高い評価を受けた[6]。被差別部落産業問題の研究でも知られた。関西大学で部落問題委員会、部落問題研究室、総合講座・部落解放論に関わり、1978年に経済学部の同僚の田中充(工業経済論)、市川浩平(商業経済論)、安喜博彦(日本産業論)と関西大学部落産業研究グループを結成して部落問題に関する共同研究を行った[2]。ただし、近現代史研究者の金靜美は、鶴嶋の研究について、戦中の松本治一郎が民族差別と闘おうとしていたという主張や、間島の朝鮮人が日本侵略の尖兵と受けとられて中国人の憎しみの対象となったという主張は「デタラメ」だと批判している[8]。
人権問題や民族問題の社会活動にも参加した[6]。
外国留学[編集]
- マールブルク大学客員研究員(1963年7~8月)
- ロンドン大学客員研究員(1966年3月~1967年5月)
- カリフォルニア大学バークレイ校客員研究員(1979年6~9月)
- 遼寧大学交換教授(1984年9~10月)
- ハワイ大学客員研究員(1987年4~9月)
- ジョージ・ワシントン大学交換教授(1997年1月~1998年3月)
- 復旦大学交換教授(1998年3月~)[1]
社会活動[編集]
- ラッセル法廷国際事務局次長(1966年9月~1967年5月)
- ラッセル法廷の第1次ベトナム・カンボジア調査隊秘書長(1966年12月~1967年5月)
- 大阪・沖縄連帯の会(デイゴの会)代表(1968年10月~1969年9月)
- 大阪日中友好国民会議世話人・理事(1969年6月~1977年3月)
- 日本バングラデシュ連帯委員会代表(1971年4月~1972年3月)[1]
- 兵庫部落解放研究所所長(1980〜1987年)
- 兵庫県差別国籍条項撤廃共闘会議代表(1981年〜)[9]
- 神戸市差別国籍条項撤廃共闘会議代表(1984年〜)[10]
トロツキズム運動[編集]
第四インターの運動の中で常に西京司と行動を共にした[4]。西と岡谷は1945、6年に日本共産党に入党し、50年問題で国際派に所属して除名された。六全協後に復党し、京都大学職員組合細胞に所属した。六全協後の党内の混乱の中で国際共産主義運動史の検討を開始し、1956年10~11月頃にトロツキーの著作の翻訳者である山西英一と連絡を取った。この頃に京大職組細胞の周辺で持たれていた「三月書房の学習会」に小山弘健が機関紙『反逆者』を持ち込んだことで内田英世・富雄兄弟を中心とする群馬グループのことを知った。1957年3月頃に『反逆者』編集部と連絡を取り[11]、同年4月に日本トロツキスト連盟(同年12月に日本革命的共産主義者同盟に改称)に加盟した[注 2]。西・岡谷ら関西グループは共産党内で加入戦術を展開して成果を上げた[11]。1958年から59年にかけて革共同の最初の学生グループを東北・東京・関西・四国・九州に組織した[12]。
1958年7月にトロツキズムを掲げパブロ派を支持する太田派と、トロツキズムは批判的に摂取すべきとする黒田派が対立し、太田派は革共同を脱退して関東トロツキスト連盟を結成した(革共同第一次分裂)。このとき西、岡谷は中間に立った[13]。太田派が脱退した後、キャノン派路線の下に第四インターナショナルへの参加を目指す西、岡谷ら関西派と、「反帝・反スタ」を掲げ「革命的マルクス主義グループ」を名乗る黒田派が対立し、1959年8月に黒田派は革共同から分裂して日本革命的共産主義者同盟全国委員会を結成した(革共同第二次分裂)。1960年11月に革共同関西派と第四インターナショナル日本委員会の多数派が合体して、第四インターナショナル日本支部・日本革命的共産主義者同盟を結成した。1965年2月に日本革命的共産主義者同盟と国際主義共産党が合体して、日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)を結成した。委員長に太田竜、書記長に酒井与七、政治局員に西京司、岡谷進らが選出された[14]。
1969年5月31日、大阪教員組合主催の“沖縄奪還大教組全員集会”に第四インター系の「国際主義高校生戦線」のメンバーを含む約210人の反戦高校生が主催者の制止を破って乱入し、一時演壇を占拠するという事件が発生する。高校生の活動を非難する西、岡谷、香山久ら旧関西派と、評価する酒井与七、小島昌光ら中央政治局が対立。酒井らが多数派を形成し、第四インターの指揮権を掌握した[15][16]。
著書[編集]
- 『経済発展と産業経営』 関西大学経済政治研究所(研究双書)、1961年
- 『近畿型民有林業の形成過程』 関西大学経済政治研究所(研究双書)、1962年
- 『調査と資料 第6号』 関西大学経済・政治研究所、1966年
- 『戦火と飢えを超えて――バングラデシュの独立』 風媒社、1972年
- 『部落産業の現状と課題』 編、解放出版社、1981年
- 『調査と資料 第65号』 関西大学経済・政治研究所、1988年
- 『調査と資料 第72号』 関西大学経済・政治研究所、1990年
- 『中国朝鮮族の研究』 関西大学出版部、1997年
- 『豆満江地域開発』 関西大学出版部、2000年
脚注[編集]
注[編集]
出典[編集]
- ↑ a b c d e f 「鶴嶋雪嶺教授略歴・著作」『台湾史研究』第15号、1998年3月
- ↑ a b 鶴嶋雪嶺編『部落産業の現状』解放出版社、1981年、217-218頁
- ↑ a b c 日外アソシエーツ編『新訂 現代日本人名録2002 3.そ~ひれ』日外アソシエーツ、2002年、743頁
- ↑ a b 社会問題研究会編『増補改訂'70年版 全学連各派――学生運動事典』双葉社、1969年、327頁
- ↑ 「一泉」第24号(PDF)一泉同窓会、1996年4月10日
- ↑ a b c d e 石田浩「鶴嶋雪嶺教授古希記念論文集の刊行に寄せて」『台湾史研究』第15号、1998年3月
- ↑ 『関大』第117号(PDF)関西大学校友会、1964年12月15日
- ↑ 金靜美『水平運動史研究――民族差別批判』現代企画室、1996年、479-483頁
- ↑ 兵庫在日朝鮮人教育を考える会「兵庫県差別国籍条項撤廃闘争の歩み」『ひょうご部落解放』第1号、1981年3月
- ↑ 神戸市差別国籍条項撤廃共闘会議「神戸市差別国籍条項撤廃の闘い」『ひょうご部落解放』第17号、1987年12月
- ↑ a b 第一章 創生期 ― 「反逆者」の発刊と「日本トロツキスト連盟」の結成 日本革命的共産主義者同盟小史
- ↑ 酒井与七「今野求とわれわれの運動」かけはし2001.10.8号
- ↑ 田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』立花書房、1985年、96頁
- ↑ 『増補改訂'70年版 全学連各派――学生運動事典』162-163頁
- ↑ 国富建治「第四インター派の「内ゲバ」主義との闘い」いいだもも、蔵田計成編著『検証内ゲバ Part2――21世紀社会運動の「解体的再生」の提言』、社会評論社、2003年、219-221頁
- ↑ 板橋真澄「酒井与七」戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年、104頁