高知聰

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高知 聰(こうち そう[1]1934年9月20日 - 2001年2月15日)は、評論家、作家[2]高知 聡(こうち そう[3][4]/こうち さとし[2][5])とも。本名は佐藤文男[2]

略歴[編集]

茨城県那珂郡大宮町(現・常陸大宮市)生まれ。栃木県芳賀郡真岡町(現・真岡市)、福島県東白川郡棚倉町を経て、主に水戸周辺で育つ[4]茨城県立水戸第一高等学校中退[2]遠坂良一新いばらきタイムス社に入社[4]。1957年に大池文雄ハンガリー事件をきっかけに日本共産党常任委員を辞任して結成した「水戸第五細胞」に参加[6]。同年に退社して上京し[2]、大池を中心に結成された『批評』グループに参加[6]。60年安保闘争前後より評論活動に専念する[2]。文学批評よりも政治・思想批評を活発に行い、批評の方法は作家・作品・読者のうち、作品と読者を重視するものであるとされる[5]

2001年2月15日、急性心不全で死去、66歳[2][7]。死因を現代思潮新社は肺癌の再発[4]革マル派は肺癌としている[8]

人物[編集]

革マル派のイデオローグ[9]、シンパサイザーであるとされる[10]。1962年に松田政男らと「反議会戦線」の事務局を担い、第6回参議院議員通常選挙に出馬した黒田寛一の選挙運動に携わった[11]。1970年9月に『朝日ジャーナル』で内ゲバを批判した哲学者の梅本克己を革マル派と一緒になって批判した[12]。また1971年に革マル派が自派の暴力を肯定するために刊行した『革命的暴力とは何か?』の実質的な編者であったとされる[10]。遺著『孤独な探究者の歩み』(2001年)では、梅本批判や『革命的暴力とは何か?』刊行以降の内ゲバの激化を反省していたようである[10][12]。革マル派が機関紙に発表した追悼文によれば、1975年6月に文化人が内ゲバの停止を呼びかけて発表した「革共同両派への提言」に背後で協力していた。当時この声明を革マル派は評価したが、中核派は革マル派による本多延嘉書記長虐殺に触れていないなどとして、全面的に拒否していた[13]

2001年2月25日付で刊行された遺著『孤独な探究者の歩み――【評伝】若き黒田寛一』のあとがきでは、黒田の『実践と場所』第1巻(2000年)について触れ、「臆面もない日本礼讃」「そこには、信じられないほどの幼児返りと先祖返りとして現れた黒田の無残な老化現象がある」などと黒田を強く非難している[14]。革マル派は2月26日付の機関紙『解放』に「追悼 高知 聰」を発表し、この本の刊行も含め「わが運動への間接的支援に感謝する」とした[8]。しかし、次号の『解放』(3月5日付)に黒田寛一署名の「高知聰『孤独な探究者の歩み』に抗議する」を発表して高知を非難し[15]、その後は一転して高知を激しく非難している[16]。中核派はこの事態を「カクマル・黒田とJR総連松崎との分裂・対立の激化と連動して、カクマル随伴文化人・高知聰の「遺書」となった黒田の伝記が黒田・カクマルの新たな危機を激成している」などと論じた[14]

評価[編集]

歴史学者の小島亮は高知を「黒田寛一グループに近い秀れた批評家」と評している[17]

書評家の松岡正剛は、マルクスや黒田寛一などを別にすると、「アンリ・ルフェーブルゲオルグ・ルカーチ埴谷雄高レジス・ドブレイムレ・ナジ、高知聡、フランツ・ファノンなどを正確な値を示す水準器の水泡の動きを確かめたくて見るような一人の観測者の気分で、しきりに読んでいた時期がある」と、書評サイト「千夜千冊」の中で書いている[18]

よど号ハイジャック事件を論じた『スカイ・ジャック』(1970年)は、雑誌『流動』の「総特集ー新左翼理論20年史」で代表著作100に選ばれた[9]

パリ・コミューンハンガリー革命を論じた『都市の蜂起』の新版(2003年)は、朝日新聞で「コミューン論の白眉」と書評された[19]

著書[編集]

単著[編集]

  • 『学校への挑戦』 三一書房(高校生新書)、1966年
    • 増補版『学校への挑戦――あるいは<<遊学>>の思想』 創魂出版、1969年
  • 『水戸天狗党――維新風雲録 関東ゲリラ隊始末記』 大和書房(ペンギン・ブックス)、1968年
  • 『異貌の構図――高知聰思想文学論』 永田書房、1968年
  • 『都市と蜂起――高知聰評論集』 永田書房、1969年
    • 第2版『都市と蜂起――高知聰評論集』 オリジン出版センター、1983年
    • 新版『都市と蜂起』 現代思潮新社、2003年 - 高知聡名義
  • 宮本顕治を裁く』 創魂出版(偶像破壊シリーズ)、1969年
    • 増補・改題『宮本顕治――批判的評伝』 月刊ペン社、1973年
  • 『墜落――全日空機ドキュメント』 三一書房(さんいちぶっくす)、1969 年
  • 『スカイ・ジャック――「よど号」事件の残したもの』 三一書房(三一新書)、1970年
  • 『日本共産党粛清史』 月刊ペン社、1973年
  • 『孤独な探究者の歩み――【評伝】若き黒田寛一』 現代思潮新社、2001年
  • 『高揚した日本労働運動の軌跡――1945-1948』 現代思潮新社、2011年 - 高知聡名義

共著[編集]

分担執筆[編集]

出典[編集]

  1. 『日本共産党粛清史』奥付、『著作権台帳 第26版』
  2. a b c d e f g 日外アソシエーツ編『現代物故者事典 2000-2002』日外アソシエーツ、2003年、237頁
  3. 佃實夫ほか編『現代日本執筆者大事典 第2巻 (人名 か~し)』日外アソシエーツ、1978年、409頁
  4. a b c d 高知聡 現代思潮新社
  5. a b 立石伯「高知聡」日本近代文学館編『日本近代文学大事典 第二巻』講談社、1978年、16頁
  6. a b 小島亮『ハンガリー事件と日本――一九五六年・思想史的考察』中公新書、1987年、188-189頁
  7. 「高知聰氏死去」『朝日新聞』2001年2月17日付朝刊35面(1社会)
  8. a b 「解放」第1657号 (2001年2月26日) 革共同・革マル派公式ホームページ
  9. a b 編集部「解題―代表著作一〇〇選」『流動』1978年2月号、流動出版、1978年、173頁
  10. a b c 絓秀実『1968年』ちくま新書、2006年、264-265頁
  11. 絓秀実、井土紀州、松田政男西部邁、柄谷行人、津村喬、花咲政之輔、上野昂志、丹生谷貴志『LEFT ALONE――持続するニューレフトの「68年革命」』 明石書店、2005年、56、83頁
  12. a b 小西誠「革共同両派の内ゲバの歴史・理論と実態」いいだもも、生田あい、栗木安延、来栖宗孝、小西誠『検証内ゲバ Part2――日本社会運動史の負の教訓』社会評論社、2001年、37-38頁
  13. 小西誠「革共同両派の内ゲバの歴史・理論と実態」同、52-54頁
  14. a b カクマル随伴文化人の「遺書」 高知聰の『評伝』が暴いた黒田寛一の恥ずべき実像『前進』1999号5面1(2001年4月2日)
  15. 第1658号(2001年3月5日)の内容
  16. 第1659号(2001年3月12日)第1660号(2001年3月19日)第1661号(2001年3月26日)第1663号(2001年4月9日)第1664号(2001年4月16日)
  17. 『ハンガリー事件と日本』206頁
  18. 652夜『革命的ロマン主義』アンリ・ルフェーブル 松岡正剛の千夜千冊
  19. 「コミューン論の白眉(情報フォルダー)」『朝日新聞』2003年10月12日付朝刊12面(読書2)

その他の参考文献[編集]

  • 日外アソシエーツ編『20世紀日本人名事典 あ-せ』日外アソシエーツ、2004年(コトバンク
  • 平凡社教育産業センター編『現代人名情報事典』平凡社、1987年