水谷保孝
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水谷 保孝(みずたに やすたか、1945年10月[1] - )は、日本の新左翼活動家。元革命的共産主義者同盟全国委員会(通称:中核派)政治局員。筆名・峰岸武夫[1]。
経歴・人物[編集]
横浜市磯子区生まれ、神戸市須磨区出身[2]。兵庫県立長田高校を経て、1964年早稲田大学第一政経学部に入学、雄弁会に加入。同年11月マルクス主義学生同盟・中核派、1965年8月中核派に加盟した。1966年の学費・学館ストライキで無期停学処分を受け、処分を受けたまま大学を中退した[1]。
1967年の10・8羽田闘争で逮捕、起訴。佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争では米軍基地に突入し、逮捕、起訴された[3]。米軍王子野戦病院開設阻止闘争でも逮捕、起訴された。1968年5月日大闘争オルグ、1969年3月中核派全学連副委員長、7月同書記長。8・14嘉手納基地突入闘争を指揮、8月「予防検束」された。1970年7月7日の華青闘告発を受けて自己批判に取り組み(七・七自己批判)、青年アジア研究会事務局長を務めた。革マル派との内ゲバに関連して二度逮捕・起訴され、服役した。1977年1月『前進』編集長、中核派政治局員。17年間編集長を務めた後、反戦闘争担当、諸戦線担当となった[1]。
2006年11月に中核派を離党[1]。党の方針に従わなかったため除名された[4]。その後、『図書新聞』の編集者となった[2]。2015年5月、同時に除名された元政治局員岸宏一と共著で『革共同政治局の敗北1975〜2014――あるいは中核派の崩壊』を刊行した[2]。これに対し中核派は「今や日帝権力中枢の極悪の手先に転落した彼らをわれわれは断じて許さない」「岸らスパイ分子を完全打倒しつくそう」と非難した[5]。
著書[編集]
- 『革共同政治局の敗北1975〜2014――あるいは中核派の崩壊』 岸宏一共著、白順社、2015年5月