岸宏一 (政治活動家)
岸 宏一(きし こういち、1947年7月[1] - 2017年3月?)は、日本の新左翼活動家。元革命的共産主義者同盟全国委員会(通称:中核派)政治局員。筆名・麻生浩[1][2]。
経歴・人物[編集]
群馬県渋川市出身[1][2]。群馬県立渋川高校を経て、1966年慶應義塾大学経済学部に入学[1][3]。1967年砂川闘争、10・8羽田闘争に参加、12月マルクス主義学生同盟・中核派に加盟[1]。1968年の米軍王子野戦病院開設阻止闘争、新宿米タン阻止闘争で逮捕・起訴[1][2]。同年12月中核派に加盟、1969年5月全学連(中核派)書記局、8月全学連書記長代行、全国全共闘書記局員。11月の佐藤首相訪米阻止闘争で総指揮者の一人となり、1970年2月に逮捕・起訴[1]。同年に退学[1][3]。
1971年、破防法裁判闘争を支える会事務局[1]。1974年1月14日、革マル派による破防法被告・弁護団襲撃で重傷を負う[1][3]。1976年6月、中核派の東京南部地区委員長[1]。1981年1月、中核派の三里塚闘争担当責任者となり、以後25年間現地で活動を続ける[1][2]。この間、中核派は成田空港問題を巡り、10.20成田現地闘争、東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件、千葉県収用委員会会長襲撃事件、日本飛行機専務宅放火殺人事件などを起こした[2]。1989年12月から中核派の政治局員を兼任する[1][2]。
2006年7月に中核派を離党[1]。小林哲夫によれば、党の方針に従わなかったため2006年に除名された[3]。産経ニュースによれば、2006年3月に関西の活動家が「財政的腐敗」を訴えて関西地方委員会議長を暴行・監禁したとされ、中核派首脳はこれを容認したが、岸は「テロ・リンチ」だと批判したため政治局員辞任に追い込まれ、2007年6月に除名された[2]。
中核派を離脱した後、2014年まで都内の出版社で主にコンピュータを使って版組の仕事をしていた[4]。2015年5月、同時に除名された元政治局員水谷保孝と共著で『革共同政治局の敗北1975〜2014――あるいは中核派の崩壊』を刊行した[3][5]。これに対し中核派は「今や日帝権力中枢の極悪の手先に転落した彼らをわれわれは断じて許さない」「岸らスパイ分子を完全打倒しつくそう」と非難した[6]。
著書の出版がきっかけでそれまで勤務していた小出版社を退社し、別の会社に移った[4]。2017年3月16日、谷川連峰西方の東谷山(新潟県湯沢町)へ山スキーに行き、宿泊先に「道に迷った」と電話した後、行方不明になった。捜査の結果、リュックサックは見つかったが、生存は絶望的とみられる[7]。2017年9月公開のドキュメンタリー映画『三里塚のイカロス』に主要登場人物の一人として出演しており、この映画が事実上の遺言となった[8]。
著書[編集]
- 『革共同政治局の敗北1975〜2014――あるいは中核派の崩壊』 水谷保孝共著、白順社、2015年5月
脚注[編集]
- ↑ a b c d e f g h i j k l m n 革共同政治局の敗北1975〜2014 白順社
- ↑ a b c d e f g 渡辺浩 【ニュースの深層】中核派元幹部、雪山で不明3カ月 10年前に除名…「完全打倒」予告されていた(2/4ページ) 産経ニュース(2017年6月23日)
- ↑ a b c d e 小林哲夫『シニア左翼とは何か』朝日新聞出版(朝日新書)、2016年、229-231頁
- ↑ a b 朝山実 闘争という祭りのあとを彼らはどう生きたのか。ドキュメンタリー監督に聞く。 「ウラカタ伝」(2017年9月18日)
- ↑ 渡辺浩 【ニュースの深層】中核派元幹部、雪山で不明3カ月 10年前に除名…「完全打倒」予告されていた(3/4ページ) 産経ニュース(2017年6月23日)
- ↑ 革命的共産主義者同盟政治局 革命運動史上最大のスパイ分子に転落した岸・水谷・岩本を打倒せよ 『前進』第2681号(2015年5月18日)
- ↑ 渡辺浩 【ニュースの深層】中核派元幹部、雪山で不明3カ月 10年前に除名…「完全打倒」予告されていた(1/4ページ) 産経ニュース(2017年6月23日)
- ↑ 早川健人 「三里塚のイカロス」完成 成田反対運動その後描く 元現地闘争活動家の「遺言」 /東京 毎日新聞(2017年6月20日)地方版