上杉景勝

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上杉 景勝(うえすぎ かげかつ、弘治元年11月27日1556年1月8日)‐ 元和9年3月20日1623年4月19日))は、戦国〜江戸期の大名

概要[編集]

父は長尾政景。母は上杉謙信の姉・仙桃院。上杉謙信の甥であり、北条氏康の七男の景虎と共に実子の無かった謙信の養子となった。
御館の乱での景虎との後継争いに勝利して、越後国戦国大名を継いだ。織田信長没後は早くから豊臣秀吉に接近して信任され、出羽・佐渡・越中の切り取り勝手を許される一方、傘下大名だった上野・信濃の真田昌幸は独立の豊臣大名とされた。文禄4年(1595年)1月、秀吉より、越後・佐渡・越中の金銀山の支配を任せられた[1]

同年2月、蒲生騒動が起こると、秀吉の命で東蒲原の津川城に藤田氏を派遣、代わりに新川が前田領とされ、郡内の諸城を前田利長の家臣・青山吉次に明け渡す。

同年6月以降、景勝を含む六人の大大名は豊臣家の大老[注釈 1]に任ぜられ、小早川隆景の死後、景勝を含む五人の大老は豊臣家五大老と呼ばれるようになる。

蒲生秀行減封の後に直江兼続を家老に擁して、会津120万石[注釈 2]に加増移封され、以後は「会津中納言」と呼ばれた。

会津若松城主となり、 関ヶ原の戦いでは神指城築城を咎められて徳川家康に敵対、前哨戦の会津出兵の原因を作ったため減封され、出羽国米沢藩30万石の初代藩主となる。
正室は武田信玄の五女・菊姫。側室・四辻氏より嗣子の定勝が出生した。

慶長11年(1606年)、京にて禁裏御造営の御手伝に就く。慶長20年(1615年)、大坂冬の陣においては佐竹義宜と共に徳川方として参陣した。

元和9年(1623年)2月、嫡男・千徳が将軍・秀忠に謁見し、定勝と名乗る。同年3月20日、景勝は米沢城に於いて薨去した[2]享年69。

後史[編集]

なお、のちに定勝の後嗣の綱勝は嗣子を儲けぬまま没し、綱勝死後に米沢藩は15万石に半減したが、幕末に18万7千石に加増される。

また、武田信玄の末子・武田信清は米沢藩重臣(能登畠山に次ぎ序列二位)となり、信玄の子孫が現存する(次男・武田信親の家も徳川家臣で続いているが、既に信玄子孫でなくなっている)。

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. 「大老」は後世の呼称であり、当時は「奉行」「年寄」(『武家事紀』第三十一、「加能越古文書」「毛利家文書」など)であったとする学説・文献もある。
  2. 「上杉家記」の「会津移封所領目録」には120万1,200石余と記されており、会津120万石は通説として『藩史大事典 第一巻 北海道・東北編』(雄山閣、1988年)を始め多くの書籍に記載されている。

出典[編集]

  1. 竹越與三郎『日本経済史 第3巻』(日本経済史編纂会、1920年) P.67
  2. 児玉 2010, p. 207.

外部リンク[編集]

関連項目[編集]