神指城
ナビゲーションに移動
検索に移動
神指城(こうざしじょう)とは、現在の福島県会津若松市神指町高瀬に築城されていた日本の城である。
概要[編集]
慶長3年(1598年)1月、豊臣秀吉の命令により、越後国春日山城主であった上杉景勝は、陸奥国会津若松城主として加増移封された。同年8月に秀吉が死去すると、次の天下人の座を狙って徳川家康が蠢動し、慶長4年(1599年)に前田利家が死去すると、最早その蠢動を止められる者はいなくなった。
このような中で、上杉景勝は居城を会津若松城から新たに移そうと目論見、その場所として神指を選定した。会津若松城は山に近いことから守備には非常に不利であると見て、新たに居城を築くことにしたのである。これは利家の死後、家康に対抗しようとしていた石田三成と結ぶ景勝が、家康の侵攻に備えての築城でもあった。景勝はこの築城を当時としては異例の急ピッチで推し進め、20万人も動員して緊急工事をしたという。しかし、慶長5年(1600年)に家康によって会津征伐が開始され、その征伐前に石田三成が畿内で挙兵に及んだことから、家康は会津を攻めることなく引き返し、関ヶ原の戦いで家康は三成ら西軍に大勝して、天下人の座を確実なものとした。
戦後、上杉景勝は家康の命令により、会津120万石から米沢城30万石に減移封され、神指城は完成することなく打ち捨てられることになった。つまり、城主を1度も迎えずに廃城となったのである。現在では城跡は田園地帯となっており、その中に積み上げられた土塁のみが当時の面影をわずかに現在に伝えられている。