諸葛靚

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

諸葛 靚(しょかつ せい、生没年不詳)は、三国時代武将。父は諸葛誕。子に諸葛恢諸葛頤仲思諸葛亮とは同族である。

生涯[編集]

諸葛誕の末子で、父が司馬昭に対して反乱を起こした際に援軍を求めるために人質として呉に入っていたため、父の死に巻き込まれることなく生き延びた[1]正史に詳しい記録はないが、279年に呉の大司馬(現在の国家の最高軍事責任者)に任命されていることからそこそこ有能だったと考えられている[1]

280年西晋により呉が滅ぼされた際(呉滅亡)、身柄を西晋の首都・洛陽に移された[1]。しかし諸葛靚は西晋の禄を食むことを拒否して門を閉ざして蟄居する[1]。そして官位に就くことなく生涯を終えた[1]

世説新語』方正篇によると、呉が滅んだ後、諸葛靚は西晋から大司馬に任命されたが出仕しなかった。西晋が父を殺した仇であるためで、いつも洛水に背中を向けて座っていた。西晋の武帝とは昔馴染みだったため、武帝は会いたいと願ったが方法がなかったため、諸葛妃(武帝の叔父・司馬伷の妻。諸葛誕の娘で諸葛靚の姉)に頼んで諸葛靚を呼ばせた。諸葛靚は姉のもとにやって来ると、武帝も諸葛妃の所へ出向いて顔を合わせた。挨拶が終わり、酒宴がたけなわになった頃、武帝が「君は勿論幼い頃の友情を覚えているだろうね」と言うと「私は「炭を呑み身体に漆を塗って復讐する(春秋時代テロリストである予譲が炭を呑んで声をつぶし、身体に漆を塗って皮膚をただれさせ、妻さえ見分けがつかないほど変身して主君の仇を討つ機会を狙った故事のこと)」こともできず、今日再びお目にかかることになってしまいました」と答えて涙を流したので、武帝は恥ずかしさで居たたまれず退出した。諸葛靚が幼馴染の情を強調する武帝に対して自分は今も復讐の機会を狙い憎悪している、と昂然と言い放った凄まじい気迫の持ち主であったことを表している。

脚注[編集]

  1. a b c d e 井波『中国人物伝Ⅱ、反逆と反骨の精神、三国時代 - 南北朝』P176

参考文献[編集]