諸葛恢
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諸葛 恢(しょかつ かい、284年 - 345年)は、西晋から東晋にかけての政治家。東晋において尚書令にまで栄進した。字は道明。祖父は諸葛誕。父は諸葛靚。
生涯[編集]
父と違って『晋書』巻77に伝記が収められており、記録は数多くある。若い頃から優れた才能の持ち主として名声が高かった[1]。しかし諸葛恢が成長して西晋に仕えるようになる頃、既に西晋は八王の乱と永嘉の乱でその寿命が尽きようとしていた[1]。そのため父がかつて呉の重臣だった伝手を使って江南に移住した[1]。西晋が滅んで東晋が成立すると、諸葛恢は東晋政権に参画し、王導や庾亮に次いで高い評価を受けた[2]。また王導と同じ琅邪出身であったことも王導と親しく交わる理由と一つとなり、王導から「君はきっと髪黒き宰相になるだろうな」と言ってその才能に期待を寄せられたという[2]。
諸葛恢は機知に富んだ人物として知られている。『世説新語』排調篇によると王導と二人で話し合っていた時、王導が王氏と諸葛氏の一族の優劣を語り合ったが、王導が「君は何故葛・王と言わずに王・葛というのか」と尋ねると「驢馬と言って馬驢と言わないようなものですよ。驢は別に馬より優れているわけではありません」と述べた。つまり驢は驢馬の意で馬より小さい。つまり普通は優れた方を、あるいは自分の家を先称するのが普通だが、諸葛恢は劣った物が先称される驢馬の例を取り上げて鮮やかに切り返したのである。
王導と親しかった関係から、諸葛恢は元帝・明帝・成帝の3代に仕えて功績を立て続け、尚書省の長である尚書令(宰相)の地位にまで栄進した[3]。345年に62歳で死去した。
三国志演義には登場しない。