蜷川親長

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蜷川 親長
にながわ ちかなが
改名 新左衛門(通称)。道標(号)
性別 男性
年齢 78
時代 戦国時代 - 江戸時代
生年月日 天文2年(1533年
死没日 慶長15年5月8日1610年6月28日
国籍 日本国旗.png日本
職業 室町幕府政所代幕臣長宗我部氏家臣江戸幕府旗本
武器  
口癖  
名ゼリフ  
配偶者 斎藤利賢の娘
子供 親満、蜷川某(美作入道)
蜷川親世:不詳
家族構成 姉?:切手局、弟?:斎藤親三

蜷川 親長(にながわ ちかなが)は、戦国時代武将奉公衆安土桃山時代の文人、歌人長宗我部氏家臣を経て、江戸時代初期の旗本

略歴[編集]

通称は新左衛門。法号は道標。父は蜷川親世[1]

蜷川家は蘇我氏に滅ぼされた物部氏の末裔と伝わり、室町幕府成立後は足利将軍家に仕え、政所代として幕政に参画した[1]

永禄12年(1569年)、父の死去により家督を相続して足利義昭に仕え、丹波国河内国にあった所領を安堵されたが、天正元年(1573年)に織田信長によって室町幕府が滅亡すると長宗我部元親の招聘に応じて土佐国に下り、家臣に列して岡豊城下の蓮如寺に屋敷を与えられて連歌の教授をした。元親没後は盛親に仕え、関ヶ原の戦いで長宗我部家が改易になった際、浦戸一揆が起きると子の親満、桑名吉成らと協力して一揆を平定した[1]

その後、大坂に上坂して徳川家康に会い、500石の知行を与えられて江戸幕府の旗本となる。親長はその教養の高さから御伽衆に列して故実を講じる役目を与えられた。慶長15年(1610年)に死去。78歳没[1]

子孫は江戸幕府の旗本として存続した[1]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. a b c d e 山本大「長宗我部元親のすべて」P203

参考文献[編集]

外部リンク[編集]