蜷川親長
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蜷川 親長 にながわ ちかなが | |||||||||||||||||||||||||||||||
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蜷川 親長(にながわ ちかなが)は、戦国時代の武将で奉公衆。安土桃山時代の文人、歌人。長宗我部氏の家臣を経て、江戸時代初期の旗本。
略歴[編集]
蜷川家は蘇我氏に滅ぼされた物部氏の末裔と伝わり、室町幕府成立後は足利将軍家に仕え、政所代として幕政に参画した[1]。
永禄12年(1569年)、父の死去により家督を相続して足利義昭に仕え、丹波国と河内国にあった所領を安堵されたが、天正元年(1573年)に織田信長によって室町幕府が滅亡すると長宗我部元親の招聘に応じて土佐国に下り、家臣に列して岡豊城下の蓮如寺に屋敷を与えられて連歌の教授をした。元親没後は盛親に仕え、関ヶ原の戦いで長宗我部家が改易になった際、浦戸一揆が起きると子の親満、桑名吉成らと協力して一揆を平定した[1]。
その後、大坂に上坂して徳川家康に会い、500石の知行を与えられて江戸幕府の旗本となる。親長はその教養の高さから御伽衆に列して故実を講じる役目を与えられた。慶長15年(1610年)に死去。78歳没[1]。
子孫は江戸幕府の旗本として存続した[1]。
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
外部リンク[編集]