董和 (蜀)
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董 和(とう か/とう わ、生没年不詳)は、中国の後漢末期の武将・政治家。字は幼宰(ようさい)[1][2]。子は董允[1]。曾孫は董宏。
生涯[編集]
荊州南郡枝江県の出身[1]。後漢末期の争乱で一族を率いて西進して益州に入り、劉璋に仕えて江原県の県長や成都令に任命され、赴任先では倹約に徹して粗末な衣服を着て粗食に徹して治世に貢献したという[1][2]。劉備の入蜀の時は益州太守の地位にあり、以後は劉備の家臣になり、招聘されて掌軍中郎将に任命され、諸葛亮と共に政務を取り仕切って親交を深めたという[1]。諸葛亮とはその過失を直言できる仲であり、信頼されたという[2]。死去した際に家に蓄えは無かった[2]。
『三国志演義』では劉備の入蜀での戦いで張魯に援軍を要請する策を唱えたり、降伏を決意した劉璋になおも徹底抗戦を主張する反劉備の人物として描かれている[1]。劉備には史実どおり掌軍中郎将に任命されているが以後は登場しない[1]。