葛山氏広
葛山 氏広(かつらやま うじひろ、生没年不詳)は、戦国時代の武将。後北条氏の一族で、駿河の葛山氏当主。父は北条早雲。母は早雲の側室・葛山氏の娘。北条氏綱の異母弟で、北条幻庵の異母兄にあたる。
生涯[編集]
通称は八郎。官途は中務少輔[1]。葛山氏に養子入りし、永正10年(1513年)の段階では葛山氏の家督を継承して駿河に在住しており、今川氏親の家臣として今川氏御一家の家格に位置付けられていたことがわかっている。葛山氏は今川氏に従属する駿河国衆であるが、北条早雲の関東進出の軍事行動には参戦しているため、氏広が葛山氏に養子入りしたのもその一環と推測されている。諱の氏広の「氏」は主君・今川氏親からの偏諱と考えられている[2][3]。
大永4年(1524年)に文書を発給しているのが初見。天文元年(1532年)4月13日には官途名中務少輔を称している。早雲の死後、氏綱が今川氏から政治的自立を遂げた後も、氏広は今川氏の家臣、御一家として駿府に屋敷を構えて氏親・氏輝に仕えていた。天文5年(1536年)に氏輝が死去し、花倉の乱を経て弟の義元が今川氏の後継者となり、この内乱で義元が甲斐の武田信虎と同盟を結んだことから氏綱との同盟関係が破綻し、天文6年(1537年)から駿河河東地域の領有をめぐって義元と氏綱が争う河東一乱が開始されると、氏広は異母兄の氏綱に味方した[3][4]。
天文7年(1538年)9月19日に鎌倉の鶴岡八幡宮から祈願のために大般若経を転読してもらっている。これは氏広が重病にあったため、その回復を祈願したものであったと見られている。天文8年(1539年)4月に法名・竜光院殿大円登雲大居士の名で見られるため、天文7年から天文8年にかけて死去したものと考えられている[4]。
氏広には実子が無かったため、家督は養子に迎えていた氏元が継承した[4]。