伊賀上野藩
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伊賀上野藩(いがうえのはん)は、江戸時代初期のごくわずかな期間に伊賀国上野(現在の三重県伊賀市)に存在した藩。藩庁は伊賀上野城。別名は伊賀藩(いがはん)。石高は20万石。藩主家は外様大名の筒井氏。
概要[編集]
筒井定次は養父・筒井順慶と共に織田信長に仕え、信長没後は羽柴秀吉に仕えた。天正12年(1584年)に順慶が死去すると定次が後継者となるが、天正13年(1585年)に秀吉の命令で大和国から伊賀国に移封される。大和40万石から伊賀20万石と所領を半分も減らされた上での移封だった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、定次は東軍に属した。このため、居城の伊賀上野城は西軍によって落とされている。しかし定次は東軍に在陣して本戦でも奮戦し、その戦功により戦後は所領を安堵されてここに伊賀上野藩が立藩した。
慶長13年(1608年)、家臣の中坊秀祐が大御所・徳川家康に対して定次の不行跡を訴えたことから、定次は罪を問われて所領を没収されて改易となった。これにより伊賀上野藩は廃藩となり、その所領は伊勢国津藩主となった藤堂高虎の藩領として組み込まれた。
なお、定次は大坂夏の陣に際して豊臣氏と内通していたという罪により、自殺を余儀なくされた。
歴代藩主[編集]
- 筒井氏
20万石。外様。