石巻康保
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石巻 康保(いしまき やすもり、? - 天正7年(1579年)?)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。後北条氏の家臣。通称は勘解由左衛門尉。下野守。父は石巻家貞。兄に板部岡康雄(板部岡江雪斎の養父、石巻康堅)。弟に康敬、天用院。鎌倉郡野庭関城城代、御馬廻衆寄親、評定衆を務めた。仮名は彦四郎[1]。
略歴[編集]
石巻氏は北条早雲の時代から後北条氏に仕える最古参の家柄の一つである。康保は山角康定、垪和康忠らと同じく、主君である北条氏康から「康」の字を授かった重臣の1人である。
康保は家貞の次男だったとされ、長兄の康堅が板部岡氏の家督を継承したことから、代わって嫡子になった。永禄2年(1559年)の「役帳」で彦四郎の名前が見えるのが、史料上の初見となる。永禄4年(1561年)2月からは勘解由左衛門尉の官途でその名が見られ、永禄12年(1569年)6月には石巻氏の家督を相続して当主となり、後北条家の重臣として評定衆に列している。康保の裁許した朱印状の署判数は11点に及んでおり、後北条家の中心的な官僚として働いていることがわかる。天正3年(1575年)12月から、受領名として下野守を称した[1]。
天正7年(1579年)6月の史料を最後に巻保の名は確認できなくなっているため、恐らくこの時期に死去したと推測される。子供が無かったのか、家督は弟の康敬が継承している[1]。