矢野純也
矢野絢也(やの じゅんや、1932年(昭和7年)4月27日生 - )は、日本の政治家、政治評論家。
のちに、創価学会に批判的な立場となり創価学会を脱会した。
経歴[編集]
- 1932年(昭和7年)に大阪府八尾市で生まれた。大阪府立山本高等学校卒業。1953年(昭和28年)に、21歳で創価学会に入会した。当時は、京都大学経済学部の3年生だった。1955年(昭和30年)3月に京都大学経済学部卒業。1955年(昭和30年)年4月に大手の建設会社の大林組に就職した。
- 1963年(昭和38年)の大阪府議会議員選挙に立候補し初当選し、大阪府議会議員となる。
- 1967年(昭和42年)1月の衆議院総選挙に公明党から立候補し、初当選し衆議院議員となる。
社公民路線[編集]
明電工事件[編集]
汚職事件の明電工事件に絡み、1987年1月に、明電工が売った10億円の株式の購入者の中に矢野純也の秘書、元秘書の名前があったという汚職疑惑が発覚した。1988年(昭和63年)12月9日に『朝日新聞』が「『脱税事件』の捜査の過程で、矢野絢也(元公明党委員長)の秘書らが『総額10億円』もの株式を購入した『名義人』に名を連ねていた」と報じた。1988年(昭和63年)12月9日に矢野純也は自身と秘書の関与を否定。これとは別に、1987年(昭和62年)5月に、明電工の関連会社の株取引に関係して、矢野純也の自宅で2億円の授受があったとの疑惑を朝日新聞が追及。当初、朝日新聞の取材に対し、矢野純也は2億円の授受の疑惑を否定していた。
1988年(昭和63年)12月10日に、朝日新聞社を名誉毀損罪で刑事告訴するも、1989年(平成元年)3月23日に刑事告訴を取り下げた。
1988年(昭和63年)12月12日に、矢野純也は記者会見を開き、明電工の元専務の石田篤に対し、自宅で現金2億円を受け渡したことを発表し、「元秘書と明電工側との、株式を担保にした融資を仲介した」と説明した。翌12月13日に、これに対し『朝日新聞』は「矢野委員長との株式売買だった」との石田幸四郎(当時、公明党の国会議員)の証言を報じている。
1989年(平成元年)5月に、『朝日新聞』に、明電工の元相談役の中瀬古功の「明電工関連株をめぐる2億円の授受は、矢野委員長本人との取引だった」という発言が掲載された。これに対し、矢野純也は「悪意にもとづく根拠のないデッチ上げ発言だ」と反論。新聞各紙は「矢野委員長の進退問題に発展も」と報じて「中瀬古証言、公明党・矢野氏の進退問題に発展か」と報じて、「明電工疑惑が再燃 矢野公明党委員長、苦境に 参院選控え進退も」などと報じられた。1989年(平成元年)5月17日に、公明党委員長(第4代)を辞任し、公明党の最高顧問に就任。
政界引退[編集]
1993年6月の衆議院選挙には出馬せず、政界を引退した。1993年(平成5年)10月に雑誌『文藝春秋』に「極秘メモ全公開」を発表し、第55回文藝春秋読者賞を受賞した。これとともに政治評論家に転身した。
創価学会に批判的な立場となる[編集]
のちに、創価学会に批判的な立場となり、2008年(平成20年)5月1日に創価学会を脱会した。2010年11月3日に国(日本政府)から勲章の旭日大綬章を受章。
人物[編集]
- 元財務官・榊原英資、元イ・アイ・イ・インターナショナル代表・高橋治則、東京スター銀行前会長・寺澤芳男、野村証券元会長・田淵節也、北海道拓殖銀行元香港支店長・山代元圀、株式会社中川ワイン販売代表・中川一三、株式会社シマブン代表・島田文六などの経済界の人物とも親交が深い。
- 創価学会の入会前から日蓮正宗の法華講(お寺に所属する信者の集まりを“講”といい創価学会も“講”の一つだった。)所属信徒であり、もともと創価学会で薫陶を受けた人材ではなかった。これにより政治家を引退後に創価学会内での自分の処遇が充分ではないとの不満から、のちに創価学会に対して批判的な立場になったというのが多くの見方であった。