畑山元季
畑山 元季(はたけやま もとすえ、? - 天正17年8月9日(1589年9月18日))は、戦国時代の武将。畑山元氏の長男。安芸氏、次いで長宗我部氏の家臣[1]。
略歴[編集]
父は畑山元氏で長男。弟に右京太夫、元康らがいる。子に実春。別名を実忠[2]。官途は内蔵尉[1]。
永禄12年(1569年)8月に主家の安芸家が長宗我部元親に滅ぼされた際、父の元氏と弟の右京太夫は安芸千寿丸を連れて阿波国に逃れたが、この際に元季は同行しておらず、後になって弟の元康と共に後を追って阿波に逃れている[1]。
天正10年(1582年)の中富川の戦いで父と右京太夫は戦死。生き残った元季、元康兄弟は元親の家老・野中親孝の斡旋により、元親に阿波において降参して許され、畑山一在所に所領を宛がわれて土佐国に帰国した[1]。
ところが、元季は阿波で討ち死にするべきところを無様に生き残って生き恥を晒した自分を悔しがり、常々不満を口にしていたという[3]。あるいは知行地のことで不満を漏らしていたともいうが[4]、これが、長宗我部信親という愛息を失って既に度量を失っていた元親に知られて逆鱗に触れ、天正16年(1588年)9月13日付で元親に起請文を差し出すことでひとまず許されている[3]。
だが、元親の怒りはこれでも収まらなかったらしく、1年ほどだった天正17年(1589年)8月9日、元親は元季並びにその息子の実春らを騙して呼び出し、安芸番頭の岩神左衛門に命じて安芸城北木戸において切腹させたという[3]。
元親はさらに元季の孫・内蔵次丸も探し出して殺害。さらに縁者の子弟もことごとく殺害した。主君への騙し討ちとその後の余りの酷さに激怒した元季の家臣・畑山三十六人衆はその怨みを晴らさんと安芸城に押し寄せるも、全員が壮烈な討ち死にを遂げた。元親はその忠義を賞賛して、36名が討ち死にした場所に卒塔婆を建てて供養し、その場所が「卒塔婆が本」の地名になったといわれる(『土佐物語』)。
畑山家の名跡は、弟の元康が兄らの処刑を聞いて長宗我部家から出奔したことにより存続した。