畑山実春
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畑山 実春(はたけやま さねはる、元亀3年(1572年) - 天正17年8月9日(1589年9月18日))は、戦国時代の武将。畑山元季の子。長宗我部氏の家臣[1]。
略歴[編集]
父は畑山元季。祖父は畑山元氏。叔父に右京太夫、元康らがいる。子に内蔵次丸。官途は右京介[1]。
天正17年(1589年)8月9日、元親により父と共に騙される形で呼び出され、安芸番頭の岩神左衛門によって安芸城北木戸において切腹させられたという[1]。理由は父の元親に対する態度や知行地の問題などがあったとされる。享年18[1]。
実春には子として内蔵次丸があったが、元親により探し出されて殺された。また、縁者の子弟もことごとく殺害された。主君父子への騙し討ちとその後の余りの酷さに激怒した元季の家臣・畑山三十六人衆はその怨みを晴らさんと安芸城に押し寄せるも、全員が壮烈な討ち死にを遂げた。元親はその忠義を賞賛して、36名が討ち死にした場所に卒塔婆を建てて供養し、その場所が「卒塔婆が本」の地名になったといわれる(『土佐物語』)。
畑山家の名跡は、叔父の元康が実春らの処刑を聞いて長宗我部家から出奔したことにより存続した。