畑山内蔵次丸
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畑山 内蔵次丸(はたけやま くらつぎまる、? - 天正17年(1589年))は、戦国時代の武将。畑山実春の子[1]。
略歴[編集]
父は畑山実春。祖父は畑山元季。曾祖父は畑山元氏。大叔父に右京太夫、元康らがいる。
Wikipediaでは畑山元氏の「畑山氏のその後」で「くらのすけつぎまる」とルビが打たれているが、くらのすけとは「内蔵助」であり、助がない「内蔵」をくらのすけと読むはずは無いので、Wikipedia特有の信頼性の全くない出鱈目である。また、「畑山館の戦い」という戦いまで創作されており、Wikipediaが笑わせてくれる低質な記事の1つと言えるであろう。
祖父の元季、父の実春らが長宗我部元親によって安芸城に呼び出されて切腹させられた後、元親により一族子弟も悉く根絶やしの方針とされ、内蔵次丸は畑山の竹林中に隠れていたのを長宗我部氏の家臣・竹崎木工左衛門によって探し出されて殺害された[1]。父の実春が18歳だったといわれるため、まだ赤子だった可能性が高い。
この粛清から唯一逃げた大叔父の元康により、畑山氏の家系は存続した。