安芸千寿丸
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安芸 千寿丸(あき せんじゅまる、弘治3年(1557年) - ?)は、戦国時代の武将。安芸国虎の長男。三好氏の家臣[1]。
略歴[編集]
永禄12年(1569年)に八流の戦いで長宗我部元親に大敗を喫した安芸国虎が安芸城に追い詰められた際、御家の存続のため、長男の千寿丸を阿波国に落ち延びさせようとした。このとき、13歳だった千寿丸はこれを拒否して父と運命を共にしたいことを願ったが、国虎は許さずに一族で家臣の畑山元氏、その次男の右京太夫ら9名を付けて落ち延びさせた[1]。
千寿丸は阿波国の矢野家を頼って落ち延び、ここで矢野備後守の養子になって姓名を矢野又六と改名する。一時期は安芸郡の山奥にある魚梁瀬に潜伏して再起を図ったりしたという[3]。
その後の行方には諸説がある。
- 天正10年(1582年)、中富川の戦いで三好方に属して戦死した[1]。
- 矢野家を離れて坂西城主の赤沢宗伝を頼り、安芸飛騨守と称して宗伝の娘婿になる。坂西城が落城して宗伝が戦死すると、松坂村犬伏字我生谷に帰農し、彦左衛門と改名し、安芸十太夫弘恒と改名し、寛永14年(1637年)5月21日に81歳で死亡した。墓所も犬伏村蔵佐谷に現存し、彼の子孫は阿波安芸氏として続いた[2]。
- 母親が土佐一条氏の娘であるため、その縁から豊後国の大友宗麟を頼って亡命した[2]。
- 天正3年(1575年)、元親の攻撃を受けて戦死した[3]。