牟田口廉也

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牟田口 廉也(むたぐち れんや、明治21年(1888年10月7日 - 昭和41年(1966年8月2日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将太平洋戦争においてインパール作戦を主導した人物として著名である。

生涯[編集]

前半生[編集]

佐賀県出身[1]大正6年(1917年)に陸軍大学校を卒業する(22期)[1]。昭和11年(1936年)に中国駐屯時の連隊長の際に盧溝橋事件に遭遇している[1]。この盧溝橋事件の際、日中戦争への戦火拡大への端緒が牟田口の突撃命令にあったとする説がある[1]

昭和15年(1940年)に陸軍中将に昇進する[1]

インパール作戦[編集]

昭和19年(1944年)に第十五軍司令官に就任する。そしてイギリス領のインド軍に対してインパール作戦を主導することになった。ただインパール作戦に関しては、当初から疑問の声が大きかったという。牟田口は遂行すると言い張り、「果敢な突進こそ戦勝の近道である」と自信を持って言い放ったという。しかし陸軍少将小畑信良は物資の補給ができないとして反対し、陸軍中将の河辺正三もこの作戦は難しいとして賛同しなかった。皇族大本営参謀の竹田宮恒徳王に至っては「無茶苦茶すぎる積極案」と言い放つ有様だったという。

しかし、牟田口は反対派の中心人物である小畑を解任し、河辺に対しては説得を重ねたという[1]。河辺は盧溝橋事件の際に牟田口と共に戦った同士であり、この説得に結局は応じたという。大本営は当初はこの作戦に疑問を持って承知しなかったが、結果的には承諾してしまった[2]。これは当時の陸軍大将内閣総理大臣東條英機がイギリスからのインド独立を応援する意図もあり、インドの独立運動家であるチャンドラ・ボースと連携して積極的な外交活動を展開し、東條と知己を得て大東亜共栄圏思想を共有していたためという。また牟田口自身にインパールで勝利を収めることが戦争を終わらせる近道であると考えていたのだという[2]

こうして行なわれたインパール作戦は案の定、大失敗に終わった[2]。戦闘には敗北を重ね、物資は枯渇して日本軍は撤退を余儀なくされるが、敗走ルートは日本の軍人の遺骸で埋め尽くされてその光景は「白骨街道」とまで呼ばれたという。この作戦で死んだ数は2万人とも3万人とも言われている。作戦の失敗の理由に関しては歴史学者戸部良一が著書・『失敗の本質』で「牟田口の個人的性格」「それを許容した河辺のリーダーシップスタイル」と分析した上で、その背景には「人情という名の人間関係重視。組織内融和の優先」があったと指摘している[2]

戦後[編集]

昭和20年(1945年8月に終戦を迎えると、牟田口は戦犯の容疑で逮捕となった。しかし昭和23年(1948年)に釈放されて日本に帰国した。不起訴になった理由に関してはインパール作戦失敗で日本軍に甚大な損害を招き、イギリス軍の作戦遂行をむしろ容易にしたためであったため、と言われている。

そしてその後、昭和41年(1966年)まで77歳の天寿を全うした[2]。最期に関しては家族に看取られ、牟田口の葬儀の参列者に対しては牟田口の子息が亡父の自己弁護のパンフレットを配ったとまで言われている。

作家の半藤一利は晩年の牟田口に何度も会ったという。牟田口は戦後、インパール作戦に関して問われると「なぜ俺がこんなに悪者にされなくてはならないのか!」と激昂することもあったとまで伝わっている[2]

略歴[編集]

  • 1936年(昭和11年)5月30日-支那歩兵第1連隊長
  • 1938年(昭和13年)3月1日-陸軍少将に昇進。関東軍付
  • 1939年(昭和14年)12月1日-陸軍予科士官学校
  • 1940年(昭和15年)8月1日-陸軍中将に昇進。
  • 1941年(昭和16年)4月10日-第18師団長
  • 1943年(昭和18年)3月15日-第15軍司令官
  • 1944年(昭和19年)8月30日-参謀本部付
  • 1944年(昭和19年)12月2日-予備役
  • 1945年(昭和20年)1月12日-陸軍予科士官学校長

脚注[編集]

  1. a b c d e f 『日本の軍人100人・男たちの決断』2016年7月。宝島社、168頁
  2. a b c d e f 『日本の軍人100人・男たちの決断』2016年7月。宝島社、169頁

参考文献[編集]

外部リンク[編集]