インパール作戦

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
Wikipedia-logo.pngウィキペディアの生真面目ユーザーたちがインパール作戦の項目をおカタく解説しています。

インパール作戦(インパールさくせん)とは、第2次世界大戦後期の1944年3月から7月にかけて、当時のビルマを占領していた日本軍が連合国軍による中華民国への物資の補給拠点であったイギリス領のインドインパール攻略を狙った作戦のことである。作戦の主導者は日本陸軍の重鎮の一人であった牟田口廉也←無能。この作戦の時期は既に日本軍の敗色は色濃く、物資の補給や輸送に関しても難があるとしてそもそも作戦自体に否定的な意見が多かったが、牟田口や陸軍の首脳部により強行され、結果的に国境地帯の山間部を越えるという険しいルートをとったにも関わらずに補給を軽視して作戦を続行。そして物量に勝るイギリス軍に圧倒されて惨敗した。日本軍側にはインド独立を目指すインド国民軍、イギリス側には当時のイギリス支配下における植民地のインド軍が参戦していた。この作戦で日本軍は豪雨地帯のこともあって感染症飢餓などで、3万人以上が死亡したとされている。この作戦は「史上最低の軍事作戦」とも言われており、部下に責任をなすりつけた牟田口は戦後に裁判にかけられそうになるが、不起訴処分になっている(牟田口の愚行がむしろイギリスの勝利に貢献したことが評価されたためという)。

現在はインパール近郊に平和資料館が開館しているが、ここはインパール作戦時に日英両軍が激戦を繰り広げた丘の麓に存在する。

外部リンク[編集]