死海文書

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死海文書の画像

死海文書(しかいぶんしょ、しかいもんじょ)、または死海写本(しかいしゃほん)は、1947年から1956年にかけて、イスラエル死海北西の要塞都市[1]の近くの11箇所の洞窟で発見された、ヘブライ語聖書の断片を含む約850巻の写本の集まりである。

文書は、ヘブライ語のほかにアラム語ギリシア語で、紀元前2世紀から紀元後1世紀の間に書かれている。この時代に書かれたものとしては事実上唯一のユダヤ教聖書の文書であり、聖書本文の内容が写本を通して劣化されることなく比較的正確に伝えられてきた歴史を証明するものとして、貴重な資料であるとみなされる。

年代と内容[編集]

炭素年代測定法古文書学によると、この文書は紀元前2世紀の中頃から西暦1世紀にかけて、様々な時期に書かれたものである。少なくとも一つの文書は、炭素年代測定法により紀元前21年から西暦61年のものだと判明した。この時期のヘブライ語の文書は、エジプトから出土した、十戒の写しを含むナッシュ・パピルスが他にあるのみである。同様に書かれた資料は、マサダの要塞都市など近隣の場所から発見されている。

断片は少なくとも800巻あり、エッセネ派の信条から他の宗派の信条まで及ぶほど異なる視点で書かれている。断片の約30%はヘブライ語聖書で、エステル記以外の全文にあたる。約25%は伝統的なユダヤ教の宗教文書であり、エノク書やレビの遺訓などヘブライ語の聖書正典には含まれないもの(外典・偽典という)である。30%は聖書の注解や、クムランの辺りに住んでいたと思われるいくつかのユダヤ教の宗派の信条や規則や入会条件に関する文書である。残りの約15%はまだ判明していない。ほとんどはヘブライ語で書かれているが、アラム語で書かれたものもあり、また、ギリシア語で書かれたものも少数ある。 数ある発見の中で重要なものは、

  • イザヤ写本(1947年に発見)
  • ハバクク書注解(1947年)
  • 銅の巻物(隠された財宝等のリスト、1952年に第3洞窟の発掘調査で出土)
  • ダマスコ文書の初期版

である。

死海「写本」の名のとおり、全巻が職業的筆記者(印刷機の無い時代に存在した職業)によって書かれている。線が細く少ないインク量で流れるように書かれており、単語綴りの間違いが少なく行間も狭いこと、などで職業的筆記者と判る。筆跡分析の結果、数百人の異なった筆跡であることが判明している。唯一の例外はの巻物で、職業的でない書き手によって銅版にペンで彫られている。

出所[編集]

当時800巻以上のヘブライ語の宗教的文書が数百人の職業的筆記者によって書かれたことを考えると、死海写本はエルサレム神殿図書館から流出したものと考えられる。紀元70年ユダヤ戦争でエルサレム神殿がローマ軍攻撃により完全焼失したことを考慮すると、ユダヤ戦争前あるいは戦争中にエルサレム神殿から持ち出され、クムラン洞窟に隠されたと想像される。

一説によると、エルサレム神殿祭司たちはユダヤ戦争中、もしも戦争後ローマ軍が神殿に入り図書館を検査した際、ユダヤ戦争の発端となったユダヤ過激派たちに関連する文書が見つかると神殿の立場が危うくなると心配し、神殿図書館中の過激セクト関連文書を集めて少人数に託し、神殿を脱出させたという見方がある(ナグ・ハマディ写本にも見られるように、古代ユダヤ教では、神の名が含まれた文書は、たとえ過激セクトによって書かれたもの、異端視されたものであっても、焼くことが禁止されていた)。

エルサレム神殿から山を東に降りヨルダン川に達すると、東岸にはクムラン城塞(ユダヤ軍基地の一つ)がある。ここはエルサレム陥落後もしばらく持ちこたえた。写本を抱えた一行はクムラン城塞の軍人たちに文書保管を依頼したが拒否されたため、城砦の下ヨルダン川沿岸に無数にある大小の天然洞窟に写本を隠したのであろう。

この仮説は、死海写本の年代や、非常に多様なユダヤ教宗派の信条や外典が集められている点などをうまく説明する。

この仮説が正しいとすると、エルサレム神殿祭司たちの心配にもかかわらず、神殿、図書館、正統的ユダヤ教文書はユダヤ戦争によって完全に焼失し、異端文書のみが2000年間保存されたという皮肉な結果になる。正統的ユダヤ教文書はラビたちが所有していた聖書が現代まで伝承された。

解釈[編集]

「死海文書を書いて隠したのは誰なのか」、1990年代まではクムランに住んでいたエッセネ派の共同体だという見方が一般的だった。その他に、マカバイ(ハスモン)家によって神殿から追放されたザドク家の祭司達(サドカイ派)が率いる共同体によるものという説も徐々に受け入れられてきている。

1963年ミュンスター大学の Karl Heinrich Rengstorf は死海文書はユダヤ教のエルサレム神殿の図書館で書かれたという説を発表したが、1960年代中に多くの学者に拒否される。学者達は文書がクムランで書かれたという考えを維持し、他の場所から移されたとは考えなかったのである。しかし1990年代には神殿の図書館だけでなく他の図書館でも書かれた可能性を考え始めたノーマン・ゴルブなどの学者達が、この説を支持するようになる。

スペインイエズス会神父ホセ・オカラハンは、第7洞窟から出土した断片"7Q5"[1][2][3][4][5][6]新約聖書マルコによる福音書(第6章、52 - 53節)だと主張した。物議を醸したこの主張は、近年になってドイツの学者 Carsten Peter Thiede によって再び取り上げられている。マルコによる福音書の一節であるという主張が正しければ、この断片は現存する新約聖書の中でも最古の紀元後30年から60年のものとなる。

1990年代に、バチカンが文書の公表を差し止めているという疑惑が発表された。特にマイケル・ベイジェントとリチャード・リーは自著『死海文書の謎』(1992年、ISBN 4760108890)で、ロバート・アイゼンマンの「いくつかの文書を実際に書いたのは、新約聖書に描かれた姿より原理主義的で厳格な初期キリスト教徒の共同体である。イエスの生涯はパウロによって神話的に歪められている。パウロは、その地域の反ローマメシア主義的カルトの影響力を弱めるためにサウロから改宗した振りをした、ローマのスパイだった可能性がある。」という憶測を一般向けに紹介し、いくつかの主要な文書が数十年間に亘って意図的に隠されていると主張した。隠された理由については、「文書はキリスト教に大きな影響を与えるものではない」という一般的な合意とは異なった、新しい説の出現を防ぐためだと言う。

死海文書は聖書の歴史にとって重要なものだと頻繁に書かれるため、「死海文書の作者は地球外生命だ」といった、様々な陰謀説がささやかれる。

沿革[編集]

発見[編集]

写本は1947年に、若い羊飼いムハンマド・エディーブ (Muhammed edh-Dhib) によって発見された。洞窟からヤギを出そうとして洞窟に石を投げ込んだところ、その石がおよそ2000年間巻き物を収めていた多くの陶器の一つに当たったのだ。1951年よりヨルダン考古遺跡局長のジェラルド・ハーディング(Gerald Lankester Harding)による指揮下で行われた考古学的な発掘調査とベドウィンの現地住人の調査により、11の洞窟から資料が発見・回収された。1955年2月13日にイスラエルは7つの主な死海文書のうちの4つを手に入れた。

公表[編集]

第1洞窟で発見された全文書は1950年から1956年までに公刊され、8つの洞窟で発見された文書は一冊にまとめられて1963年に公刊され、第11洞窟で発見された詩篇写本は1965年に公刊されるなど、驚くべき早さで多くの文書が公表された。次いで、これら資料の翻訳も早急に行われた。

しかし第4洞窟で発見された文書だけは例外で、全体の40%しか公表されなかった。これらの資料の公刊はエルサレムドミニコ会の神父ロラン・ドゥ・ヴォーが率いる国際チームに任されていて、委託された資料の1巻目を1968年に公刊したが、公刊よりも資料についての自説の弁護に力を注いだ。これら資料の編集・出版に開始当初から関わっていたゲザ・ヴェルメシュは、公刊のための作業が遅れて最終的に失敗したことについて、ドゥ・ヴォーが人選したチームが彼が行おうとしていたようなレベルの仕事をこなせるほどの能力がなく、また作業を速やかに遂行するにあたって、ドゥ・ヴォー個人のほとんど家父長的な権威に寄りかかってしまったからだと批判した。

結果として、第4洞窟で発見された文書は長年にわたって公開されず、文書の閲覧は「守秘ルール」によってオリジナルの国際チーム(または彼らが指名した者)のみに資料の閲覧が制限された。1971年にドゥ・ヴォーが死去した後も、彼の後継者達は外部の学者に判断させるための資料写真の公開要求さえ拒み続けたが、1988年に作られたコンコルダンスが国際チームの外部の学者の手に渡り、そこから再構築された17個の文書が1991年秋に公表され、続けて同じ月に第4洞窟の資料すべての写真がカリフォルニア州サンマリノにあるハンティントン図書館で発見・公表された。なお、この図書館は「守秘ルール」の範囲外だった。その後これらの写真はロバート・アイゼンマンとジェームズ・ロビンソンによって公刊され(A Facsimile Edition of the Dead Sea Scrolls、2分冊、Washington, D.C.、1991年)、この結果「守秘ルール」は無くなった。第4洞窟の文書はすぐに公刊に向けて準備され、1995年に5分冊で公刊された。

なお、バチカンではこれらの書を異端として未だ認めていない。

2010年10月19日、イスラエル考古学庁がGoogleとの共同により死海文書の全てをデジタル撮影し、インターネット上で公開する計画を発表した[2]。2011年9月26日には「イザヤ書」ほか5つの文書が公開された。

脚注[編集]

  1. クムランは歴史的にはユダヤにあたり、文書発見の頃に始まった中東戦争によってヨルダン川西岸地区と呼称されるようになった地域にあたる。
  2. 死海文書、ネット公開へ:新たな一歩 - 2010年10月21日 ナショナルジオグラフィック ニュース

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 『死海写本 発見と論争1947-1969』(エドマンド・ウィルスン著、桂田重利訳) ISBN 978-4622001812
  • 『死海写本の謎を解く』(エドワード M. クック著、太田修司・湯川郁子共訳) ISBN 4764266105
  • Frank Moore Cross, The Ancient Library of Qumran, 3rd ed., Minneapolis: Fortress Press, 1995. ISBN 0800628071
  • 『死海文書は誰が書いたか?』(ノーマン・ゴルブ著、前田啓子訳) ISBN 4881355910
  • 『はじめての死海写本』(土岐健治著) ISBN 406149693X
  • 『死海文書-その真実と悲惨』(O.ベッツ、R.リースナー著、清水 宏訳) ISBN 978-4947668141

外部リンク[編集]