棚橋泰助
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棚橋 泰助(たなはし たいすけ、1922年12月16日[1] - 2010年4月17日)は、社会運動家[2]、労働評論家[3]、政治家。構造改革派の論客[4]。
略歴[編集]
兵庫県洲本市生まれ[5]。労働運動家・政治家の棚橋小虎の息子[6]。1951年東京大学文学部中退[5]。産業労働調査会、労働調査協議会に勤務[7]。1959年9月の第5回都党会議で日本共産党東京都委員[8]。1961年2月の第6回都党会議では都委員に立候補できなかった[9]。1961年7月に構造改革派として「反党活動」を理由に除名[10]。1963年日本社会党に入党[11]。1967年『月刊労働運動』(現代の理論社)編集長[10]。1969年東京都議会議員(4期)[11]。社会党の構造改革論争では自治体議員としての実践活動を通じて構造改革論を展開した[2]。1985年の都議選には立候補せず、後継者の坂口光治(のち西東京市長)が立候補・当選した[12]。
人物[編集]
- 1957~58年当時、産業労働調査会(産労。戦前の産業労働調査所の後身)の運営にあたっていた。棚橋が辞めた後は片桐薫が引き継いだ[6]。1960年6月時点で産業労働調査会勤務[13]。
- 1964年12月時点[14]および1967年春時点で労働調査協議会事務局長[10]。
- 1955年の六全協後に旧国際派が井汲卓一宅で行っていた勉強会、井汲塾のメンバーとなった[15]。1957~58年時点で現代マルクス主義派(現マル派)になっていた[6]。
- 共産党内の革新派・反対派は1959年9月の第5回都党会議に安東仁兵衛、棚橋泰助、小川太郎らを送り込んだが、1961年2月の第6回都党会議で春日正一都委員長は都委員会少数派(構造改革派)の排除を指示し、安東、棚橋、小林、小川らは委員に立候補する余地すら与えられなかった[16]。1961年7月17日に第13回都委員会総会は安東、棚橋、小川の3名を「春日、山田らに呼応する反党分子」として党員権停止処分を決定。7月24日に第14回都委員会総会は安東ら3名とともに野田弥三郎、西尾昇、増田格之助、芝寛、武井昭夫を「悪質な反党分子」として除名した[17]。棚橋は1960年8月に共産党を離党した春日庄次郎らが全国的組織(同年10月に社会主義革新運動準備会を結成)の結成を急ぐことを決定した関東ブロック会議に参加した[18]。
- 共産党東京都委員長の春日正一は棚橋を「春日庄次郎徒党に転落した反党分子」と批判している。春日正一によると、安東仁兵衛、棚橋泰助、小川太郎は1959年9月の五都会議で東京都委員に選出されたが「ことごとに、二つの敵とたたかう党の路線を妨害しつづけ」、1961年2月の六都会議で14中総決議に反対した。六都会議で都委員を辞めさせられた安東、棚橋、小川らは「春日庄次郎一派の党大会直前の逃亡と反共反党集団結成に呼応して、すでに前述した庄次郎流の脱党声明を発表し、かれの幕下になだれこんだ」。1960年11月に社革東京準備会を結成するのための会合がもたれたが、組織上の意見の対立のため結成することができず、暫定的に組織委員会をつくり、西川彦義、遊上孝一、片山さとし、棚橋泰助、三田和美、中村丈夫、明石博隆、平良直豊の8名を委員に選出した[19]。
- 社会党書記の貴島正道によると、共産党の脱党グループからいち早く社会党に入党したのは三沢純、池山重朗、佐藤昇、棚橋泰助らだったという[20]。
著書[編集]
- 『戦後労働運動史』 大月書店、1959年
- 『講座現代の政治 第2 現代における国家と革命』 柴田高好、津田道夫、森川英正、池山重朗、直原弘道共著、合同出版社、1962年
- 『日本の産業別組合――その生成と運動の展開』 岡崎三郎筆者代表、総合労働研究所、1971年
出典[編集]
- ↑ 『趣味別現代人物事典 東日本版』サン・データ・システム、1979年、1605頁
- ↑ a b c 加藤宣幸「編集後記76」一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ広場」
- ↑ 棚橋泰助「労働運動への新しい視角」『月刊社会党』第146号、1969年5月
- ↑ 加藤宣幸「編集後記34」一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ広場」
- ↑ a b 棚橋泰助『戦後労働運動史』大月書店、1959年
- ↑ a b c 安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』文春文庫、1995年、275頁
- ↑ 岡崎三郎筆者代表『日本の産業別組合――その生成と運動の展開』総合労働研究所、1971年
- ↑ 安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』文春文庫、1995年、376頁
- ↑ 安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』文春文庫、1995年、410頁
- ↑ a b c 日本社会運動研究会編『左翼活動家・文化人名鑑』日刊労働通信社、1969年、324頁
- ↑ a b 太田久行、棚橋泰助「革新の都市政策を考える――「大都市プロジェクトの提言」をめぐって」『月刊自治研』第27巻第4号(通巻307号)、1985年4月
- ↑ 坂口こうじ「"市民が主役"の党をめざして頑張りたい」『都政研究』第31巻第2号(通巻353号)、1998年2月
- ↑ 棚橋泰助「貿易自由化と労働運動」『学習の友』第80号、1960年6月
- ↑ 棚橋泰助「「平和革命の条件と移行の過程」について」『月刊社会党』第90号、1964年12月
- ↑ 安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』文春文庫、1995年、290頁
- ↑ 小山弘健『戦後日本共産党史』芳賀書店、1966年、253、269頁
- ↑ 中外調査会編『内外社会運動史年譜 1965年』新世紀社、1965年、587-589頁
- ↑ 労働省編『資料労働運動史 : 資料 昭和36年』労務行政研究所、1963年、1300-1301頁
- ↑ 春日正一「春日庄次郎らの反党裏切り行為を粉砕しよう」、日本共産党中央委員会宣伝教育文化部編『修正主義・トロツキズム・右翼社会民主主義(第三分冊)』日本共産党中央委員会出版部、1962年
- ↑ 貴島正道『構造改革派――その過去と未来』現代の理論社、1979年、58頁
外部リンク[編集]
- 棚橋 泰助 一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ広場」