片山さとし
片山 さとし(かたやま さとし、1906年2月25日 - 1992年8月12日)は、ジャーナリスト、評論家。本名は片山睿(読み同じ)[1]。
経歴[編集]
島根県美濃郡吉田村(現・益田市)生まれ[1]。松江高等学校を経て[2]、東京帝国大学経済学部中退[1]。東京帝大新人会のメンバー[3]。横書きローマ字論者で、学生時代その運動により検挙され1年間拘留された[4]。読売新聞社に入社し、欧米部[5]、外報部部員、戦時中に論説委員となった。敗戦直後の1945年9月、外報部の同僚の鈴木東民らと社内に民主主義研究会を結成。鈴木を議長として10月23日に開催された社員大会で正力松太郎社長以下幹部の総退陣が決議されたが、24日に正力はこれを拒否し片山を含む5名の解雇を通告した。25日に読売新聞社従業員組合が結成され第1次読売争議に突入、12月11日に正力社長退陣、解雇撤回で組合側が勝利した。この間、日本共産党に入党。
第1次読売争議後は読売新聞調査部長兼論説委員を務めていた[6]。1946年6月13日に馬場恒吾社長はGHQの勧告で片山を含む労組幹部6名の解雇を発令し、第2次読売争議に突入した。21日に社内にいた片山を含む労組幹部4名が業務妨害や住居侵入の疑いで検挙、2週間拘留された後に不起訴で釈放された。10月16日に労組幹部6名を依願退社の取扱とする約定書が経営者と争議団との間で調印され、争議は組合側の敗北で終結した。
読売新聞社退社後は日本共産党の『アカハタ』編集部に入り[7]、『アカハタ』政治部長、『新しい世界』編集長[5]、日本共産党東京都委員(1955年7月の六全協後の一時)を歴任[8]。勤労者学園理事も務めた[5]。1961年に共産党を除名され、評論活動に入った。1962年社会主義革新運動全国委員[1]。
著書[編集]
単著[編集]
- 『日本共産党はどこへ行く』 三一書房(三一新書)、1971年
- 『日本共産党に与える書――その政治・組織路線批判』 三一書房(三一新書)、1974年
- 『日本共産党の転向』 三一書房、1976年
共著[編集]
訳書[編集]
- スターリン『無政府主義か社会主義か』 片山サトシ訳編、暁明社、1950年
- 中共幹部必読文献編集委編『思想方法論――マルクス・エンゲルス・レーニン・スターリン』 五月書房、1951年
- 国際科学委員会編『細菌戦黒書――アメリカ軍の細菌戦争』 蒼樹社、1953年
- W.バーチェット、A.ウィニングトン『朝鮮の米軍――巨済島休戦会談』 五月書房、1953年
- ロバート・コンクェスト『スターリンの恐怖政治(上・下)』 三一書房、1976年
遺稿集[編集]
- 片山さとし遺稿集刊行委員会編集『片山さとし遺稿集』 片山さとし遺稿集刊行委員会、1995年
脚注[編集]
- ↑ a b c d 20世紀日本人名事典の解説 コトバンク
- ↑ 鎌田慧『反骨のジャーナリスト市長 鈴木東民の闘争』七つ森書館、2012年、191頁
- ↑ 増山太助「証言 日本の社会運動 日本ジャーナリスト連盟の結成と新聞単一(上)増山大助氏に聞く」『大原社会問題研究所雑誌』593号、2008年4月
- ↑ 鎌田慧『反骨のジャーナリスト市長 鈴木東民の闘争』七つ森書館、2012年、191頁、271頁
- ↑ a b c 片山さとし『日本共産党の転向』三一書房、1976年
- ↑ 鎌田慧『反骨のジャーナリスト市長 鈴木東民の闘争』七つ森書館、2012年、278頁
- ↑ 鎌田慧『反骨のジャーナリスト市長 鈴木東民の闘争』七つ森書館、2012年、297頁
- ↑ 大金久展「「神山分派」顛末記」、早稲田1950年記録の会『史料と証言第4号』1999年
参考文献[編集]
- 鎌田慧『反骨のジャーナリスト市長 鈴木東民の闘争』七つ森書館、2012年
- 「表現の自由」研究会編著『現代マスコミ人物事典』二十一世紀書院、1989年
- 平凡社教育産業センター編『現代人名情報事典』平凡社、1987年
- 「平和人物大事典」刊行会編著『平和人物大事典』日本図書センター、2006年
関連文献[編集]
- 安東仁兵衛『戦後日本共産党私記』文春文庫、1995年
- 安田敏朗『近代日本言語史再考 V ことばのとらえ方をめぐって』三元社、2018年