日本社会党 (1906年)
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日本社会党(にほんしゃかいとう)とは、明治39年(1906年)に成立した日本最初の合法的な社会主義政党のことである。
概要[編集]
明治39年(1906年)1月、西川光二郎らが日本平民党、堺利彦らが日本社会党の結党届を提出した。当時の内閣総理大臣が穏健派でリベラル派だった西園寺公望(第1次西園寺公望内閣)であったため、これが受理されて2月に両党は合同して日本社会党を結成した。結党当時の正式な党員はおよそ200名ほどであった。機関誌は半月ごとにだされる「光」と発禁処分にされていた日刊の「平民新聞」であった。日本社会党は普通選挙運動、東京市電運賃値上げ反対運動、足尾銅山鉱毒事件の争議などで積極的に支援活動を行なった。
ところが党内で片山潜、田添鉄二、堺利彦らの議会政策派と幸徳秋水、大杉栄らの直接行動派による対立が発生する。幸徳が半年のアメリカ留学を経験して直接的な運動こそ必要だと転向したのが原因であった。議会政策派にすれば社会主義政党の活動がようやく公認されたのだから、まずは活動をすることが第一だと考えていたのだが、幸徳は1907年2月の第2回社会党大会で直接行動を宣言し、結果的にそのやり方をめぐって内部対立に発展してしまう。さらにまずかったのは「本党は国法の範囲内において社会主義を主張す」とあった党則をこの党大会で「本党は社会主義の実行を目的とす」と修正したことである。この党大会により、もともと社会主義に大いに反発していた元老の山縣有朋らが社会党への厳しい処置をとるように西園寺に求めるようになる。
そして、この党大会からわずか5日後、西園寺公望は結社禁止を命令して日本社会党はわずか1年ほどでその命運を終えた。