河邑重光
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河邑 重光(かわむら しげみつ、1939年[1] - )は、日本共産党名誉役員、元『赤旗』編集局長[2]。
経歴[編集]
名古屋大学卒業[3]。在学中、自治会役員等を務めながら学生運動に参加。その中で「トロツキスト」の妨害活動にぶつかったと、新左翼を批判した著書のあとがきに書いている[4]。1960年代前半北京週報社に勤務。日中両党の関係が決裂すると、「宮本指導部に忠勤を表明し、早々と帰国した」という[3]。1987年時点で『赤旗』編集局次長[1]。1997年9月の第21回党大会では日本共産党中央委員会中央委員・幹部会委員・常任幹部会委員・書記局員・中央機関紙編集委員会責任者に選出[5]。2000年11月の第22回党大会で常任幹部会委員から幹部会委員に降格、約12年間近く務めてきた『赤旗』編集局長を退任[6]。また中央機関紙編集委員会責任者を退任[7]、出版企画委員会責任者・出版局長・資料室責任者に選出[8]。
2004年1月の第23回党大会で雑誌刊行委員会責任者に選出[9]。2006年1月の第24回党大会で資料室責任者を退任、党史資料室責任者に選出[10]。2010年1月の第25回党大会で出版企画委員会委員に選出[11]。2014年1月の第26回党大会で中央委員・幹部会委員・書記局員を退任、名誉役員に承認された[12]。
著書[編集]
- 『日ソ領土問題の真実』 西口光、早瀬荘一共編著、新日本出版社、1981年
- 『反共市民主義批判』 新日本出版社、1985年
- 『実録 「新左翼」は三度死ぬ――その軌跡と役割』 新日本出版社、1987年
分担執筆[編集]
- 『挑発者――トロツキストの正体』 日本共産党中央委員会出版部、1967年
- 『日本の中間政党』 日本共産党中央委員会出版部、1968年
- 『公明党の日本共産党批判に反論する』 日本共産党中央委員会出版局、日本共産党中央委員会機関紙経営局(発売)、1973年
- 『核兵器全面禁止と原水禁運動』 日本共産党中央委員会出版局、日本共産党中央委員会機関紙経営局(発売)、1973年
- 『「既成左翼」否定論の社会的役割――日市連とその代表としての小田実氏の主張にたいして』 日本共産党中央委員会出版局、1984年
- 『投降主義者の観念論史観』 日本共産党中央委員会出版局、1986年
- 『日本原爆論大系 第4巻 核兵器禁止への道 I』 岩垂弘編集・解説、日本図書センター、1999年
脚注[編集]
- ↑ a b 河邑重光『実録 「新左翼」は三度死ぬ――その軌跡と役割』新日本出版社、1987年、奥書
- ↑ 2001年新春大学習会 愛知県労働組合総連合
- ↑ a b 国谷哲資「北京追憶――若者が体験した戦後日中関係秘史――」『アジア社会文化研究』20号、2019年3月
- ↑ 河邑重光『実録 「新左翼」は三度死ぬ――その軌跡と役割』新日本出版社、1987年、231頁
- ↑ 日本共産党中央委員会の人事 1997年9月26日 第21回党大会および第1回中央委員会総会で決定 日本共産党
- ↑ 治安問題研究会『日本共産党~その路線とジレンマ~』立花書房、2001年、32頁
- ↑ 日本共産党中央委員会の人事 2000年11月24日 日本共産党
- ↑ 日本共産党中央委員会の機構と人事について 2000年11月27日 日本共産党中央委員会書記局 日本共産党
- ↑ 日本共産党中央委員会の機構と人事について 二〇〇四年一月二十日 日本共産党中央委員会書記局 しんぶん赤旗
- ↑ 日本共産党中央委員会の機構と人事について 二〇〇六年一月十七日 日本共産党中央委員会書記局 しんぶん赤旗
- ↑ 日本共産党25回大会 大会で選出された新中央委員会 日本共産党
- ↑ 中央委員会の機構と人事(第26回党大会) 日本共産党