山名満幸
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山名 満幸(やまな みつゆき、? - 応永2年3月10日(1395年3月31日))は、室町時代の武将・守護大名。丹後・出雲・隠岐・伯耆の守護。山名師義の4男[1]。義幸、氏之、義熙の弟。正室は叔父の山名氏清の娘。官称は播磨守、弾正少弼[1]。
生涯[編集]
永和2年/天授2年(1376年)に父の師義が死去した後、山名氏の家督は師義の弟の時義が継ぎ、康応元年/元中6年(1389年)に時義が死去するとその息子の時煕が継いだが、この継承に満幸は不満を抱いていた[1]。至徳2年/元中2年(1385年)に出雲・丹波の守護となる[1]。明徳元年/元中7年(1390年)に満幸と同じように継承に不満を抱いていた叔父の氏清と共に第3代将軍・足利義満に時煕を訴えた[1]。当時、義満は室町幕府にとって危険な有力な守護大名の勢力削減を図っており、この満幸や氏清の訴えはまさに渡りに船で義満は満幸らに時煕追討令を出し、満幸はそれに従って時煕を没落させて伯耆・隠岐の守護職を得た[1]。しかし上皇領であった出雲横田荘を横領したとして義満から在京を停止され追放された[1]。
満幸は一族の内紛で勢力をかえって弱めた上に、義満の挑発に乗って氏清と共に明徳2年/元中8年(1391年)に挙兵して京都に攻め入ったが、京都内野の戦いで幕府軍に敗れて山陰に敗走して行方不明になった(明徳の乱)[1]。応永2年(1395年)3月10日、京都五条坊門高倉の宿舎において京極高詮により斬られた[1]。