女子プロレス

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女子プロレス(じょしぷろれす)とは女性が行うプロフェッショナルレスリングプロレス)の事である。

概要[編集]

初めは、見世物的な意味合いが強かったと思われる。後に歌手デビューする選手が相次いだため、芸能としての意味合いが強くなった。やがて、クラッシュギャルズが出てくるあたりから格闘技色が強くなり、柔道家の神取しのぶの登場で様相が変わってきた。しばらくは格闘技色が強い試合が続いていたが、ダリアンガールズやスターダムの出現により、再度ショー的要素が強まっている。

歴史[編集]

日本[編集]

ボードビリアンのパン猪狩とコメディアンの『東京コミックショウ』としても著名のショパン猪狩の兄弟が1949年1950年頃に始めた。最初は太ももにつけたガーターベルトを取り合うショーだったという。女子レスラーは兄弟の妹のリリー猪狩。

その後兄弟は全日本女子レスリングクラブを設立した。アメリカ人の軍医、エルマー・L・ホーキンスが手ほどきをした。

リリー猪狩は、1950年に入団したローズ勝美とタッグを組む。ローズ勝美は体の柔らかい選手だったという。

1954年にアメリカからミルドレッド・バークが来日して蔵前国技館で試合を行った。「世界女子プロレスリング大試合」と銘打たれたこの大会が日本に女子プロレスを根付かせたと言っていい。試合はNTVで二日間放送され、『紅の激闘』という映画にまでなった。参加日本人選手は、リリー猪狩、ローズ勝美、法城寺宏衣、橋本雅子の4選手。

以後急速に盛り上がり、複数の団体ができた。1955年の8月に6団体が集結し「全日本女子プロレスリング連盟」を設立した。連盟は「第一回全日本女子プロレスリング王座決定戦」を1955年の9月10日‐11日に開催し、KR-TV(TBS)で中継された。

翌年も第二回の大会を開催した。その後、女子プロレスの人気が落ちてリリー猪狩は1959年9月に引退。引退試合の相手はローズ勝美だった。

1961年に全日本女子プロレスと縁の深い松永高司が女子プロレス界入り。

1967年4月22日に日本女子プロレスリング協会が設立される。

1968年の3月にファビュラス・ムーラを呼び巴ゆき子が短期間だが世界のベルトを巻く。その後協会の分裂騒ぎが起き、松永が1968年6月4日に全日本女子プロレスの最初の試合を行った。1969年11月15日、正体不明のマスクド・シスターズが旋風を巻き起こす。

1970年10月15日、WWWA世界王者のマリー・バグノンに京愛子が勝ってベルトを巻く。以後、同王座は全日本女子プロレスの管理下に置かれる。

1974年7月1日、大型新人マッハ文朱がデビュー。同年9月23日国際プロレスに女子部ができる。小畑千代らがカムバックする。

1975年3月10日、マッハ文朱が歌手デビュー。女子プロレスラーでは初。同年、3月19日マッハ文朱がWWWA世界王者になる。

1976年11月30日、2月に結成されたジャッキー佐藤とマキ上田のビューティペアの人気に火がつく。11月25日に『かけめぐる青春』でレコードデビューを果たした。

1977年、ビューティペアのブームが起きて、レコードはヒットし映画にも出る。7月にフジテレビで金曜7時からの放送が始まる。

その後、1979年のマキ上田とジャッキー佐藤の敗者引退タイトル戦で、マキ上田が負けて引退。ブームは終わり女子プロレスは長い冬の時代を迎える。次のブームとなるクラッシュギャルズの登場までは、まだ間があり、タレントのミミ萩原のプロレス転向で繋いだ。1980年には2リーグ制にして興行を組んでいた。

1983年8月、ライオネス飛鳥と長与千種のクラッシュギャルズがスタート。1984年にレコードデビューしてダンプ松本共々人気が出る。

1985年8月28日、長与千種とダンプ松本の髪切りマッチで長与が負けて丸坊主になる。

1986年3月16日、ニューヨークのMSGにクラッシュギャルズとダンプ松本、ブル中野が初登場。同年、1月30日にジャパン女子プロレス設立。

1988年2月にダンプ松本と大森ゆかりが引退。

1989年5月に長与千種が引退する。8月にはライオネス飛鳥が次いで引退。以後、全女の人気は落ちていく。10月FMWがスタート、女子部からデビュー者数名。

1990年にはルチャリブレ団体、ユニバーサル・レスリング連盟の試合に全日本女子の試合を提供して、男性ファンの目前に女子プロレスが登場し、以来男性ファンをも取り込む。11月にアジャコングがブル中野と金網デスマッチで対戦し、ブル中野が金網のトップ最上段からギロチンドロップを見舞う。1991年にはロシア柔道女王グンダレンコ・テレチコワがFMWに登場、工藤めぐみに勝つ。レジー・ベネットも同時期来日。ドリンク剤のCMで時の人になる。1992年にジャパン女子プロレスが崩壊する。その後JWPとLLPWが旗揚げする。この年は何人かの女子プロレスラーがメキシコに遠征し、タイトルを取った者もいた。1993年の4月に夢のオールスター戦が開催され日をまたぐ。1994年に全女がトーニャ・ハーディングを欲しいと言い出す。1995年はGAEAJAPANと吉本興業の女子プロレス団体Jd’が旗揚げする。1996年にジュニアオールスター戦が開かれ7団体が出そろう。1997年になると悲しいニュースが続き、JWPではプラム麻里子が試合中の事故で死亡した。そして全日本女子から選手が大量離脱した。

その後全日本女子は倒産し、選手の大量離脱により新日本女子プロレス(ネオ・レディース)とアルシオンができた。全日本女子は倒産後も興行を続けていたが、2005年4月に解散興行を行い終了した。ネオ・レディースは2000年に解散し、NEO女子プロレスとして再開するも2010年に解散した。

現在の女子プロレスは、スターダムが人気である。

水着の変遷[編集]

最初は単色のワンピースが主だったが。1974年に来日した李英美は横縞の水着を着ていた。1975年頃からラインが入るようになる。ビューティペア登場時から水着にデザインが入るようになり、ブラックペアは派手な柄の水着を着ていた。77年頃にはストライプが主流となる。78年には花柄が登場する。81年には元歌手のミミ萩原がセクシーなデザインの水着を着始める。以後は水着は柄があるのが当たり前になって行くが個性的な単色も根強かったりする。また、ヒールは黒一色が多い。89年に外国人選手のメドゥーサ・マシェリが片側ワンショルダーハイレグの変わったデザインの水着を着る。90年のFMWでは女子選手もTシャツにジーンズみたいなラフな服装で闘う事があった。91年頃モレノ姉妹がスパッツを着用。93年の北斗晶あたりで明らかに水着の変化がみられる。これ以降今みたいな複雑なデザインになる。

なお、外国人選手は皆、日本人と比べて水着が派手だった。デメンティアという選手はウェディングドレスを着て闘っている。

凶器[編集]

女子プロレスでも凶器の使用は多く。デビル雅美は木刀を使い。アジャコングの一斗缶は有名である。ダーティ大和はレモンを使用しており女子プロレスらしい凶器でもある。ダンプ松本は常に竹刀を手に持ち、対戦相手やタレントを威嚇していた[1]

レフェリー[編集]

ダンプ松本の側について、ダンプたち極悪同盟に有利な采配をする阿部四郎というレフェリーがいた。

ドラマ[編集]

1984年にTBSで女子プロレスをテーマにした山田太一原作のドラマ『輝きたいの』が放映。今井美樹が女優デビューした。

演劇[編集]

長与千種がかかわり、つかこうへいが脚本を書いた『リング・リング・リング』が過去上演され、2020年に再度劇団水色革命で12月24日から27日にかけて上演された[2]

女子プロレスでしか使われない技[編集]

ハンマー投げという投げ技が男子プロレスで使われなくなり、女子ばかりになったと村松友視がエッセイで指摘している。他にはミミ萩原のビーナス固めは威力的な意味から考えて、男子プロレスではまず使われない。それを踏まえると、広田さくらのヘナーラ、ヘナストレッチも同様である。

参考文献[編集]

  • 『週刊 Lady's ゴング 週刊ゴング11/8増刊 日本女子プロレス40年史』、1997年11月8日
  • 高崎計三 『平成マット界 プロレス団体の終焉』、2023年3月25日

脚注[編集]