大友義鑑
大友 義鑑(おおとも よしあき、文亀2年(1502年) - 天文19年2月12日(1550年2月28日))は、豊後の守護大名・戦国大名。豊後大友家の第20代当主[1]。通称は次郎・五郎[1]。別名は親安・親敦[1]。父は大友義長[1]。弟に菊池義武。子に宗麟、大内義長、塩市丸。
生涯[編集]
永正12年(1515年)に父の隠居により家督を継ぐが[1]、若年のため父の後見を受けていたと考えられる。相続の年に豊後直入郡の朽網親満の反乱が起こるが鎮圧してその地位を確立した[1]。父が永正15年(1518年)に死去すると祖父・親治の後見を受けた。
この頃、肥後守護の菊池家では家督問題などから混乱が続いていたため、義鑑は実弟の菊池義武を送り込んで肥後に大友家の勢力を扶植しようとした[1]。ところが義武は兄から独立しようと義鑑の支配を攪乱したため兄弟対立・国内内乱の一因となってしまった[1]。また隣国・周防の大内義隆と豊前の覇権をかけて争い、天文3年(1534年)に速見郡の勢場ヶ原で大内軍と戦う[1](勢場ヶ原の戦い)。この戦いは時の将軍・足利義晴の和平勧告もあり、天文7年(1538年)に大内義隆と和睦した[1]。
以後は室町幕府との緊密な関係を築きながら自らに反抗した弟の義武を排除し、天文12年(1543年)に肥後守護に補任される[1]。義鑑の時代には立花道雪、吉岡長増、臼杵鑑続ら優秀な家臣団にも恵まれ、豊後・筑後・肥後の3か国に及ぶ大勢力を築き上げた[1]。
しかし義鑑は後継者をめぐり嫡子の義鎮(宗麟)ではなく、3男の偏愛する塩市丸を立てようとして家中に派閥抗争を引き起こした。天文19年(1550年)、義鑑は側近の入田親誠と結託して義鎮派の粛清を強行し、結果追い詰められた義鎮派の田口蔵人佐らに逆クーデターを起こされて居館の館にいたところを襲撃される。義鑑は瀕死の重傷を負い、一緒にいた塩市丸は殺害された(二階崩れの変)。結果、瀕死の床の中で義鑑は義鎮を後継者に選び、『義鑑条々』と称される遺言を与えて数日後に死去した[1]。享年49。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『戦国人名事典コンパクト版』 阿部猛、西村圭子、新人物往来社、1990年9月 ISBN 4-404-01752-9