大友義右
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大友 義右(おおとも よしすけ、文明16年(1484年[1]) - 明応5年(1496年)5月[1])は、豊後・筑後の守護大名[1]。大友家の第17代当主[1]。父は第17代当主の大友政親。母は大内政弘の妹。通称は五郎[1]。名は親豊・材親[1]など。
生涯[編集]
大友政親の子で、生まれた年に父から家督を相続している[1]。父と家中で争ったとされるが、この年齢で義右の意思で父と争う事自体考えにくく、実際は家臣か派閥による抗争だったのではないかと推測される。家中の争いのため、一時期は伯父の大内政弘を頼って周防に亡命した[1]。
延徳元年(1489年)には叔父の大友親胤が肥後において挙兵したが、これはもう一人の叔父である大友親治の尽力により鎮圧された[1]。明応3年(1494年)には国東郡の田原親宗が反乱を起こして豊後府内に攻め入るが敗死に追い込んだ[1]。
明応5年(1496年)5月に13歳で死去[1]。家臣や父との抗争の末による死であり、その死去には父による毒殺との説もある[1]。ただし死没した時点で13歳という幼少である事を考えると、本当に義右自身の意思で父と争ったのかどうかかなり疑問があり、一説に義右の生母が大内氏の娘であることによる抗争も含まれていたと考えられる。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『戦国人名事典コンパクト版』 阿部猛、西村圭子、新人物往来社、1990年9月 ISBN 4-404-01752-9