吉良氏広
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吉良 氏広(きら うじひろ、永禄11年(1568年) - 慶長14年3月27日(1609年5月1日)) は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。後北条氏、徳川氏の家臣。
生涯[編集]
父は吉良氏朝で嫡子。母は北条幻庵の娘(北条氏康の養女)・鶴松院殿。幻庵の外孫に当たる後北条家の一族なので、諱の氏は北条氏直からの偏諱と考えられる。仮名は源六郎[1]。
天正18年(1590年)1月から史料上での活動が確認できるので、後北条家滅亡直前には既に後北条家に仕えていたことがわかる。後北条家滅亡後は父と共に関東の太守となった徳川家康に仕え、その際に父から家督を譲られている。しかし家康はかつて三河吉良氏と敵対した関係もあって吉良の名字を称することを氏広に認めず改姓を命じたため、蒔田姓を称し、さらに諱の氏広もこの時に後北条家の偏諱を捨てて、吉良家の通字である「頼」を冠した頼久と改名し、蒔田 頼久(まいた よりひさ)と称した。官途も歴代の左兵衛佐を称した。なお妻は小笠原康広の娘であるが、この娘の母は北条為昌の娘・種徳寺殿なので、又従兄弟同士で結婚したことになる[1]。