吉田康俊
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吉田 康俊(よしだ やすとし、永禄8年(1565年) ‐ 寛永11年(1634年))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。長宗我部氏、山内氏、奥平松平氏の家臣。
生涯[編集]
父は吉田孝俊。曽祖父は吉田重俊。通称は右近、孫左衛門。諱は康俊、後に重年[1]。
最初、長宗我部元親に仕えて上夜須城、新庄城、甲浦城などの守備を務めた。天正7年(1579年)、15歳で阿波国出陣に参加し、小松島の戦いで敵に腕を斬られながらも桑名親勝の危機を救った。天正10年(1582年)8月には中富川の戦いで戦功を立てた。天正13年(1585年)の豊臣秀吉による四国征伐で渭山城(後の徳島城)を守備し、なおかつ海部城の香宗我部親泰を救援している[1]。
天正14年(1586年)12月、戸次川の戦いで敗走する際には、逃げる主君の元親の警護を務めて土佐国まで帰還した。文禄の役に参加して晋州の戦いで功績を立てる。関ヶ原の戦いでは元親没後に後継者となった長宗我部盛親に従って参戦し、敗戦後に逃走する盛親を守って土佐国に帰還した。そして、徳川家康の命令で上坂する盛親に随従して常に傍から離れようとせず、盛親を守り抜いたという[2]。
長宗我部家が改易された後は、新たな土佐国主となった山内家に仕えたが、後に大和国に隠棲する。大坂の陣が始まると大坂城に入城し、元の主である盛親を助けて大坂方として戦った。敗戦後は松平忠明に仕え、忠明の播磨国姫路藩移封まで従う。寛永11年(1634年)に70歳で死去した[2]。