加藤信景
ナビゲーションに移動
検索に移動
加藤 信景(かとう のぶかげ、? - 天正10年3月12日(1582年4月4日))は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。
生涯[編集]
生年は天文9年(1540年)、天文10年(1541年)の両説がある。父は加藤景忠で嫡男。
永禄9年(1566年)2月に弥次郎の仮名で史料上に所見されている。武田信玄・武田勝頼に仕え、天正5年(1577年)12月の諏訪明神の棟札に官途の次郎左衛門尉で所見されている。また、『甲斐国志』では信景の嫡子・加藤千久利丸の名が見えるようになっている。
永禄9年(1566年)までに父の景忠が死去しているため、その跡を継いでいる。受領名は丹後守を称した。
天正10年(1582年)の織田信長による武田征伐の際、3月11日に勝頼とその一族が自殺して武田家が滅亡したその翌日、武蔵国箱根ヶ崎において妻、並びに子息2名と共に北条氏政の命令により誅殺された。享年は42、あるいは43。
なお、Wikipedia日本語版の加藤景忠で、信景のことを武田信虎の実弟・勝沼信友の「三男」を景忠の養子として入れた、などと出鱈目が書かれているが、これは全くの誤りである。まず、通説では「次男」である。さらに言うと、信景の時代にいきなり武田家の通字である「信」を称していることを考えると、信景はむしろ武田一門の出身者の可能性、あるいは信友の子・勝沼信元の子である可能性も考えられている。