張松 (後漢)

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張 松(ちょう しょう、? - 212年)は、中国後漢末期の政治家武将子喬(しきょう)[1][2]。兄は張粛。子(または甥)に張表

生涯[編集]

益州蜀郡の出身[1]。識見と判断力に優れていたが[1]、『益部耆旧雑記』によると生まれつき小男で品行が悪かったという。208年曹操への3度目の使者として送られるが、曹操に冷たくあしらわれた[1]。ただし曹操の家臣主簿楊脩は張松の才能を見抜いて曹操に召し抱えるように薦めたが、曹操は受け入れなかった[1]。楊脩は曹操の編纂した兵法書を張松に見せると、張松は宴会の間にそれを通読してたちどころに暗誦した[1]。張松は蜀に帰国すると主君の劉璋に対して曹操との絶縁と劉備との同盟締結を進言する[1]。しかし張松は既に劉璋を見限っており、密かに同僚の法正と図って劉備の入蜀を画策していた[1]。劉備が劉璋と会見した際には劉備に対して劉璋を捕らえるように進言したが、劉備は受け入れなかった[1]。後に劉備が曹操に攻められた孫権の救援に赴こうとした際、劉備に「大業を打ち立てる前に帰国とは」と手紙を書いたが、この手紙が兄の張粛の手に渡ってしまい、張粛は自らに連座が及ぶことを恐れて劉璋に密告し、劉璋は張松を逮捕して処刑した[1]

三国志演義』では字を永年(えいねん)と変更されている。身長は5尺(約115センチ)程度の小男で頭が尖り、額は突き出て鼻はひしゃげ、出っ歯にだみ声と史実以上にひどい容姿にされている。ただ史実と同じく兵法書の暗誦、楊脩の評価などはそのままで、腹を立てた曹操は兵法書を焼き捨てたり、張松を死刑にする代わりに棒叩きにして追放している。劉備に会見して蜀を取るように勧め、法正・孟達らと図って劉備入蜀の手筈を整える。その後はほぼ史実どおりに処刑されている。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j 小出『三国志武将事典』P151
  2. 中国の思想刊行委員会『三国志全人名事典』徳間書店、1994年、259頁

参考文献[編集]