趙韙
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趙 韙(ちょう い、? - 201年[1])は、中国の後漢末期の武将。劉焉・劉璋に従っていたが、自立を画策して反乱を起こした。
生涯[編集]
後漢の太倉令で劉焉に従って益州入りする[1]。194年に劉焉が死去するとその息子の劉璋が温厚であるからとして献帝に上書し、劉璋の益州牧就任に貢献した[1]。このため、征東中郎将に任命される[1]。
劉璋の時代には東州兵と益州豪族などの対立が問題になっており、趙韙は劉璋から東州兵の取締りを委ねられた[1]。ところが益州の人民の怨嗟が深い事を知るとそれを扇動して利用し、劉璋に対して反乱を起こした[1]。この反乱は益州各地に飛び火して劉璋も成都に籠城するなど一時はかなり優勢だったが、東州兵が劉璋を支持して奮戦したため趙韙は敗れ、部下の龐楽・李異らによって最後は殺害された[1]。
『三国志演義』では劉璋を劉焉の世継ぎとして推した人物として名前のみ登場する。