張任

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張 任(ちょう じん、? - 214年)は、中国後漢末期の武将劉璋家臣[1]

生涯[編集]

益州蜀郡の出身[1]。実家は貧しかったが、若い頃から大胆で勇敢で強固な意志を持ち、益州の役所に勤めて従事となる。劉備の入蜀の際には劉璝冷苞鄧賢らと城で劉備軍と戦ったが敗れて雒城に退却する[1]。雒城では劉循と共に1年近く籠城して抗戦したが、金雁橋に出撃した際に再度劉備軍に敗れて生け捕りにされた[1]。劉備は張任の忠勇を評価して帰順を勧めたが「老臣は二君に仕えることは絶対にない」と言ったのでやむなく処刑された[1]。劉備はその死を哀悼し、張任の忠勇を称えた碑文を金雁橋のほとりに建立した[1]

三国志演義』では第60回の劉備の入蜀の際、反対する一人として登場する。涪城で劉備と劉璋が宴席を設けた際、剣舞で劉璋を暗殺せんと魏延が狙っているのを見て防ごうと進み出る。後に劉備の侵攻では蜀の名将として活躍し、落鳳坡(現在の四川省徳陽市)で白馬に乗った龐統を射殺する。さらに劉備を追い詰めるが張飛の援軍到着で取り逃がし、計略を立てて張飛も一時は追い詰めるが失敗。そして諸葛亮の計略で金雁橋を破壊されて退路を断たれて張飛に捕縛され、最期は史実通り忠義を全うして処刑された。

脚注[編集]

  1. a b c d e f 小出『三国志武将事典』P153

参考文献[編集]