小出吉政

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小出 吉政(こいで よしまさ、永禄8年(1565年[1]) - 慶長18年2月29日[1]1613年4月19日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将大名豊臣家、後に徳川家家臣但馬出石藩の初代主(在任;慶長5年(1600年) - 慶長9年3月22日(1604年4月21日))[1]。後に和泉岸和田藩の第2代藩主(在任:慶長9年3月22日1604年4月21日) - 慶長18年2月29日1613年4月19日))[1]。父は小出秀政で長男[1]。母は豊臣秀吉の叔母[1]大政所の妹)なので、秀吉の母方の従弟である。兄弟に秀家日充三尹重堅秀清正室伊東治明の娘[1]。子は4男2女[1]吉英吉親吉景吉成、娘(加藤貞泰継室)、娘(松平忠明継室))。官位は従五位下大和守。播磨[1]

生涯[編集]

尾張愛知郡中村に生まれる[1]。豊臣秀吉に早くから仕え、文禄2年(1593年)に父とは別に播磨竜野に2万石を与えられて豊臣政権下における大名となる[1]。文禄4年(1595年)に但馬出石6万石に加増移封された[1]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父と共に西軍に属した[1]。これは秀吉の旧恩と縁戚のためと思われ、東軍に属した丹後田辺城細川幽斎を攻撃した[1]。しかし実弟の秀家が東軍に属して功を立てていたため、戦後は罪に問われず所領安堵となった[1]。慶長9年(1604年)に父が死去すると、父の遺領である岸和田3万石と家督を継ぎ、それまで支配していた出石6万石は長男の吉英に譲った[1]。慶長18年(1613年)2月29日に大坂で死去した[1]。享年49[1]。家督は吉英が継いだ。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『三百藩藩主人名事典3』P541

参考文献[編集]

  • 『三百藩藩主人名事典3』藩主人名事典編纂委員会 編、1987年。新人物往来社