兵農分離

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兵農分離(へいのうぶんり)とは、軍人農民を完全に分離した状態のことを指す。つまり、これまで農業をやりながら兵士もしていた武装農民という状態ではなく、職業軍人のいわゆる精鋭に分離した政策を意味する。日本においては織田信長がこの政策を行ない、1588年刀狩りで完成したと言われているが、2022年の時点ではその評価の見直しが行われている。

織田信長[編集]

この政策は日本においては、織田信長が勢力を拡大して天下人になった過程において、他の大名家を凌駕した先進的な政策として唱えられていた。しかし、令和年間においては史料の再検討が進められて、現在では「織田信長は兵農分離を行なっていなかった」が主流となりつつある。まずは、それについて説明をする。

そもそも、「織田信長の軍隊が兵農分離をしていた」と証明する研究は存在しない。織田氏には軍役に関する史料がほとんど存在しないからである。だからといって、池上裕子のように短絡的に「織田信長は遅れていた、後進的だ」というのは危険である。

兵農分離とは職業軍人を独立させることである。つまり、領国に何かあればすぐに君主の下に駆け付けることができるような存在と言えるから「君主の城下町に集住している武士」ということができる。では、信長は家臣団を自らの城下に集住させていたのか。これに関しては『信長公記』第11にある記述に以下のようにある。

天正6年(1578年)1月29日、安土城下の御弓衆の福田与一の家を火元にして火事が起き、これがきっかけで妻子を連れて安土に引っ越してない家臣が多数いることを知った信長は直ちに菅屋長頼に命じて調べさせると、御弓衆60名、御馬廻60名のあわせて120名が妻子を帯同していないことが判明。信長は彼らを処罰し、さらに信忠に命じて尾張に妻子を住まわせていた御弓衆の私宅をことごとく放火させた。驚いた妻子は取る物も取り敢えず安土に移住し、信長はさらに罰を与えてようやく赦免した」

これは、信長が家臣の城下集住を強制し、信長の専制性を示す典型的事例として注目されている。ただし、これはあくまで火事騒ぎが起きたから信長に感知されたのであり、もし火事が無い場合は信長に気づかれるのがさらに遅れていた可能性がある。つまり、城下集住が必ずしも徹底されていなかった、と見ることもできるのだ。

兵農未分離とされている甲斐武田家の場合、武田信虎の時代に家臣団の妻子同伴による甲府城下集住を強制させており、これが原因で信虎の時代には家臣団の反乱が何度も発生している(『妙法寺記』『勝山記』)。そのため、信玄の時代には家臣団に対して甲府に居住するか、自分の所領にそのまま「在郷」するかの両様形態が取られるようになった。どちらを選ぶかは信玄の命令が無い場合は自身の判断に委ねられていたという。ただし、甲府に妻子と共に居住した場合は見返りとして新たな知行地あるいは扶持米を与えるなどの特典が与えられたという。また、武田家では外様国衆に対しても移封を実施したり改易したりしている。武田家で移封が確認できるのは大井高政大井満安小笠原長忠などの外様の大身であるが、このような外様の大身を命令ひとつで他の所領に移す政策を実施している、つまり地域支配を行なう在地領主としての性格を遊離したという点から、むしろ甲斐武田家こそ兵農分離が一定は果たしていたのではないかと見ることができる。後北条氏においても、小机衆が大井、小笠原と同様の事例が確認できるため、武田家同様に兵農分離がむしろ先進的に進んでいた、と見ることができるかもしれない。

ではなぜ、織田=兵農分離、武田・後北条=兵農未分離、と見なされたのか。これは武田家は兵を集める過程で、土豪地下人、有徳人層に対して棟別銭などの諸役を免除するという特典を与えることを条件にしていたことが記録から確認できる。これから武田=兵農未分離と見られることが多かったようだが、織田にしても、尾張や美濃で土豪層を旗本にして動員していたことは前述の『信長公記』などから確認できるし、信長が勢力拡大を果たす過程で占領国の国衆や土豪などを吸収して織田家の重臣の与力として編成していることは記録から確認されている。例えば、羽柴秀吉などは竹中重治黒田孝高などを与力にしているが、これは武田家でいうところの在郷領主に他ならない。また、信長は移封政策も細川藤孝などに対して実施しており、武田家と何ら変わるところはない。さらにいえば、城下町集住や移封は数の差異こそあれ、上杉氏など他の戦国大名も行なっており、これを理由に兵農分離と見なすことにはならない。

では、兵農分離は誰が進めたのか。これは信長評価の見直しで現在では秀吉、あるいは徳川家康と見なされることが多い。しかし、この見解も短絡である。それは、家康などは信長との同盟時代における軍役などがほとんど確認できないからである。そもそも、戦国時代においては敵を圧倒する兵力が常に必要とされていた。そのため、兵力をかき集めるために農民まで動員するのはむしろ当たり前だった。しかし、織田政権末期になると戦国大名の大半が淘汰され、秀吉の時代に天下統一が果たされて一応の泰平が訪れた。泰平はすなわち合戦の終結であり、農民を動員する必要が全く無くなったのである。つまり、兵農分離とは戦国時代の終焉という社会状況によりもたらされた産物に過ぎない、というのが実情ではないのかと思われる。ただし、戦国の終焉の道筋を立てたのは信長であり、その信長により兵農分離の道筋もつけられた、と見ることはできるかもしれないが。

一方で『信長公記』には以下のような記録もある。

「か様に攻一仁に御成り候えども、究鏡の度々の覚の侍衆七、八百甍を並べ御座候の間、御合戦に及び一度も不覚これなし」

これは信長が異母兄の織田信広と戦って勝利した際に続く記述で、恐らく弘治2年(1556年)頃と推定される。この頃、斎藤道三という盟友を失って尾張国で孤立していた信長が強かったのは「常に信長の周囲に屈強でたびたび手柄を立てるほどの武士たちが700~800人もいて、合戦では1度も敗れたことがない」と言っているのである。谷口克広は信長の指揮したこの人数が赤塚の戦い稲生の戦い堂洞合戦などによく用いられていることから、この人数は信長による「いつでも戦える専業武士団」であり、しかも「集団戦法を訓練された強力な武士団」だったのではないかと推定している。このため、信長の兵農分離を全否定するのはある意味で危険と言えるだろう。

豊臣秀吉[編集]

1588年に行われた刀狩りは農民からすべての武器を取り上げたというのがこれまでの定説であったが、これに対する反論も古くからあった。例えば、猟師や有害鳥獣の駆除に必要な火縄銃はどうしたのかという問題がある。人命を脅かしたり農作物を荒らす有害鳥獣の駆除には火縄銃は大切な「農具」であった。さらに、武士が城下町で所有する火縄銃よりも農民が持っている火縄銃の方が多い事例は各地にあった。

関連項目[編集]

参考文献[編集]