人間の性の諸相

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この項目では人間の性の諸相、すなわち高度な精神をもつ人間における性(人間の性)の特殊性を、さまざまな局面から解説する。

ヒトは生物であり、生殖としての性行為を行うと同時に、性は深く人間存在の精神面に関係している。そのため、人間の行動や現象が、様々な分野に横断的に関係することになる。実際、精神を持つ人間は、プライドを持ち、社会規範他者の視線を意識し、性行動は、人の心理のありようと密接な関係を持つ。また人間は、社会的な存在であり、文化を持つ存在でもあるため、人間の性の現象は、社会や文化などにおいても多様な位相を備えることになる。

人間の性存在性[編集]

人間の性は、人間の存在のありよう(性存在性セクシュアリティ、Sexualité Humaine )と不可分なものである。性別、年齢問わず人は性的存在であることから逃れられない。人間は社会的な生き物であり、社会には性の区別が存在するからである。たとえ、人が孤独の無人島で過ごしても、社会より隔絶された意識と共に、なお社会の成員であるという心の意識は消えることがない。性の区別のない社会や世界を言葉で考えてみることはできるが、実際にそれがいかなるものであるのか、「すでに性ある存在としての人」には、実は想像も構想も不可能な何かである。

古代のギリシア人は、人間を「死すべき者(トゥネートス、Thnetos )」と呼んだが、現代の賢人は、人間を「性に生きる者(ホモ・エロティクス、Homo Eroticus )」と呼んでいる。

愛・生殖・社会・文化・芸術・ポルノ[編集]

人間は動物でもあれば、を持ち、自己を意識する精神存在でもある。更に、人間は社会的存在であり、他の人々との共同体のなかにおいて生きている。社会には個人の生死を越えて伝達される文化がある。

人間の性の現象は、このようにして、動物としての肉体的な性愛生殖を目的とした交わりの位相も持てば、男性女性社会的な親交関係や、社会の制度規範政治に関係する位相も持つ。

愛と生殖[編集]

性の起源-目的論的記述[編集]

生物における性の存在の意味は、の発生の意味についても記されているように、多細胞生物であって、かつ遺伝子の多様性を確保しようとすると、何かの合理的な遺伝子の混合・交叉・シャッフリングの機構が必要になる。そのための機構がであり、「複数の性」をもつ生物も存在するが、生物の進化途上において、多くの生物では「二つの性別」に収束した。このことには数学的な合理性があるとする立場もある。

このような生物の進化の視点から見、なおかつ目的論的に記述するならば、人間に性別が存在することは、生殖生命の多様化・環境適応・進化を目的としているということになる。また性行為は、生殖・子孫の生成を最終目標としているとも言え、それは個人とは、元々関係なかったとも言える。生殖行為はするが、子孫の育成のためには何の努力もしないという生物は多数存在する。一方、哺乳類が代表的であるが、子孫の育成にが大きな労力や努力を払う例もある。ヒトは哺乳類の中でも特に幼弱な状態で出生するので、親(ないしその代理)が施す養育は極めて重要である。子供を保護し育てようとする母性はヒトに深く刻み込まれ、一方で個人の人生とせめぎあう。

生殖相手の選択における戦略[編集]

性行為は子孫の繁栄と遺伝子の多様化・進化のために必要な行為であるとすると、生殖の相手の選択は、遺伝子的に優勢であると考えられる個体、子孫の存続と繁栄に有力な特質を備えていると考えられる個体が望ましいとなる。動物における交配相手の選択では、やはり、体力があり、知力も備える(言い換えれば、交配行為で巧妙な行動が取れる)個体が選択されることになる(孔雀の交配においては、を選択するが、その基準は、雄孔雀の広げた尾羽根にある「目の模様」の数であるという研究がある)。

人間における生殖相手の選択の特殊性[編集]

社会的地位[編集]

人間の場合にも、他よりも優れた身体を持ち、知力を持ち、それに伴う行動の巧みさや生存能力の高さなどが、現在でもなお、相手の選択の基準になっているが、人間は社会的存在であるため、相手の社会的な立場を考え、あるいは将来の可能性に賭けて、交配相手を選択することが加わる。実際、社会的な選択は、家柄に応じての結婚相手の選択というような社会制度慣習ともなっている。相手の収入や資産、社会的地位などが重視されるのも十分に根拠がある。

ロマンティック・ラブ・イデオロギー[編集]

その一方で、古代より、前記の二つの条件とは別に、好きな相手、恋愛の相手を、結婚の対象とするという自由恋愛思想があり、芸術作品のクリシェの一つであり、実践も多数存在した。

これは、人間が自己を反省する存在であり、精神自我を持ち、身体の外見や、行為の様式や、うちなる心のありよう、すなわち「人間としての個性」に対し引きつけられる存在であるという事実から起因している。他者の心を配慮し、他者や集団のの為に尽くす人、博愛の人は、個体として見ると、生物的・社会的に優秀な特性を持っていない場合もある。しかし、そのような人は、非常に大きな弧を描いて、共同体の利益に尽くす人だとも言える。もっとも、美男・美女であることや相手を精神的に満足させる能力も、広い意味での生物としての優秀性と捉えることもでき、博愛主義はゲーム理論的な分析も受けている。

恋愛と自由意志[編集]

さて、ヒトは必ずしも肉体的・社会的に有利な相手を交配相手として選択しないことを見てきた。人間の愛の自由や選択は、種の保存としてのメーティング相手の選択基準とは別のものであり、また社会の制度や慣習における相手の選択原理とも異なるものである。男女が婚姻恋愛の相手を決めるのに、複数の基準が存在し、そこに自由意志の介入も含まれるということは、人間はただに有力な相手と性行為だけを行う動物でもなく、社会の制度や慣習に従う社会的動物でもないことの証左である。

人間の精神の自由、意志の自由が存在することは、性の相手をめぐり、結婚や恋愛の相手をめぐり、古代より、共同体の存続を危うくするほどの事件の契機ともなって来た。それは歴史にも記録されており、様々な神話は、満たされない恋愛や、社会規範と葛藤するや、そこから生まれる悲劇や、幸福なエンディングなどを語り伝えている。人間にとって、性と性愛は、精神の愛とも絡まり、複雑な位相を持っていることになる。

しかしながら、今後脳科学が発達すれば、愛の選択すら生物学的現象に還元されてしまうかもしれない。よく知られた簡単な例としては、女性のポートレートを二枚複製し、片方の瞳をレタッチして大きく見せた所、瞳の大きい姿の方が魅力的に見えたという報告がある。この現象自体は以前から知られており、瞳孔を開かせる作用のあるベラドンナアルカロイドアトロピンはこの一種から作られた)が利用された。ベラドンナ bella donna は「美しい女性」の意味である。

文化と愛・芸術とポルノグラフィー[編集]

文化技術より生まれ、芸術は技術の一つのありようでもあれば、性をめぐる技術、性をめぐる芸術は、遙かな古代より人類の文化の中核をなして来た。精神昇華された高尚な性の芸術もあれば、性の欲望を生き生きと表現するポルノグラフィーもあった。

快楽としての性[編集]

愛が技術(テクネー)の一種であることは、現代の精神科医であるエーリッヒ・フロムも述べているが、自由を標榜する個的存在・実存者としての人間においては、生殖をめぐる生物的な要請と社会的な要請基準以外に、生のありようにあって愛が重要な意味を持っている。ここでは、生物的な営みであったはずの性行為が、生殖とは独立した快楽の目的を備えるという事情が入ってくる。

人間は特定の発情期を持たない動物で、換言すれば、常に発情しているとも言える。高等動物の性行為は食事と同様に快刺激が含まれると考えられるが、快楽あるいは快感を求めて性行為を志向したり、性的行動を行う点で人間は例外的である(類似した現象は高等なサルでも部分的に知られている。チンパンジーなども始終発情しており、自慰行為などもしているとの報告がある)。

人間は、性的行動が種の保存のための生物学的要請であることを超えて、個体の快楽のためにも存在し得ることを発見し、普遍的に実践してきた。よって、

  1. 生殖、種の保存
  2. 社会的な制度・慣習における性行為(夫婦関係、愛人関係、後宮、大奥、公娼等)
  3. 実存としての「心の自由と選択」における恋愛や愛
  4. 快楽

これらが輻輳し共鳴しているのが人間の性の基本的な特殊性である。

愛の技術と心の配慮[編集]

エロース(愛)とプシューケー(心)

生物的・社会的な規定に対し、個人の自由意志の発動としての愛や恋愛は、快楽としての性の存在位相も加えて、すでに述べたように、歴史に影響を及ぼし、それは神話として語り伝えられてもいる。あるいは「愛の技術」は、実は「こころの技術」でもあれば、性的行為やそれに至る過程までの身体的な行動や動作に対する心理的配慮でもある。

「快楽としての性」を求めて行くとき、恋の駆け引きや恋愛技術に加えて、行為の巧みさを含む、性心理的かつ性の生理的な技巧が要請されるようになり、「恋の達人」とは、こころの技術と、身体の快楽や快適の技術双方に通じた者であり、更に、社会的な規範慣習との折り合いをいかにつけるかの社会的技術の達人でもある。

常に発情状態にある人間は、まさにそれ故に、恋愛の相手の選択がより洗練され、微妙なものとなっており、特定のフェロモンを発していれば、ただちに性行為へと移るというような単純なありようではなくなる。「恋の技術(アルス・アマトリア)」は古来より伝わっており、オウィディウスが著者として知られる、ローマ時代の本がその濫觴という訳ではない。

愛の神話と性の芸術[編集]

サッポー彫像(Claude Ramey)

あるいは生殖という奇跡をもたらし、新しい生命を創造するが故に、神聖なものとして古代より崇められ、東西の歴史において、生殖を司る大女神が存在し、崇拝を受けていた。中近東の女神イシュタルや、古代ギリシアの女神アルテミスなどがなる大地の女神として崇拝され、更に、「」そのものも、と見なされ、エロースは古代ギリシアにおいて、もっとも古く、もっとも偉大で美しい神とされた。

遙かな先史時代から生殖する女性あるいは女神への崇拝が発掘物等に見出されており、歴史時代に入っても、生殖の大女神や、愛の神への信仰は継続した。それらの信仰を表現するための彫像や、絵が残っており、また神話は語り継がれると共に、絵画に描かれ、彫刻に描写され、更に、文章の形で記録された。多くの神話は、大いなる愛の葛藤やその勝利悲劇をめぐる物語を持っている。

また、婚資の延長として「恋愛の贈り物」が制度としても、個人意志の表明としても実施され、愛を称え、あるいは恋愛の相手に贈る言葉文章や作品が造られた。これらのなかに「愛の技術」「恋の技法」を語るものが登場し、文章や絵画彫刻そのものが、愛の技巧の手段として使用され生み出されることになった。ここに、性愛文学春画や、性の手引き書や愛の技術書などを含めた、広義の「ポルノグラフィー」の起源が見られる。

性の経済と売春[編集]

交易の概念は技術の発生と同じぐらいに古く、人類が言語を獲得するよりも早くから存在した。それは暗黙の合意の上の物品生物交換贈与であったり、ときに強奪であったりした。多くの遊牧文化は、定住農耕文化からの物品の強奪を正当な制度的行動と考えてきた。

繁殖力の交換システム[編集]

しかし、戦争や力による強奪以外に、交易あるいは物品の交換と流通のシステムは次第にルールが定まって行き、生き物や土地なども含めて物品の価値を決める貨幣での基準が生まれた。古代にあって、大きな権力を持った者は、同時に大商人であり豪商でもあった。あるいは政治的・軍事支配者は、交易や商取引をこととする者たちと密接な関係を持ち、両者のあいだには相互依存関係も存在した。

生殖、そして恋愛性愛の快楽も、このような経済制度の発達に確実に巻き込まれていった。また古代より、戦争や強奪の目的の一つとして、繁殖に不可避な配偶者女性の獲得が存在した。性愛や恋愛は、個人的・社会的な技術であったが、交易や経済行動も、同様に技術であり、共同体としての安定した体制が成立する背景には、物品・生き物等の交換や流通の技術機構に加えて、生殖婚姻をめぐって性をシステム化する技術が必要であった。

経済システムにおける取引対象としては、物品や土地の他に家畜などの生き物、更に「技術」や「知識」も価値あるものであり、人間も取引の対象であった。食料とする人肉を得るための人身売買もあったが、一般的には家畜同様、まず人間の労働力が取引価値であり、ある人間の持つ知識や技術も取引対象となり、繁殖の源となる女性も商品に含まれた。

売春 - 快楽と愛の商品化[編集]

しかし前述の通り、性行為の目的には、古代より繁殖以外に、恋愛や快楽そのものもあった。性的快楽を目的とした女性の売買が行われ、子供や青少年も、ときに性愛の快楽対象として商品価値を持った。ここより我が身を売り相手に性的快楽を与える売春の商取引が生まれる。

売春の起源には二つの要素が考えられる。一つは個人の恋愛と快楽への志向、もう一つは強奪や経済システムにおける組織的な意思である。後者は人身売買と密接に関連し、奴隷制度個人人権の問題とも関係する。商業としての売春は社会が文化的に洗練されて行くと、同様に複雑に洗練されて行く。

性の商品化と風俗産業の興隆[編集]

アムステルダムの風俗街

もっとも単純な売春は、性行為の快楽自体を提供するサービスである。文化的洗練を経て、性行為に関連する状況・物品・知識、性行為を連想させるさまざま様態も商品とされるようになった。例えば、性行為は含まないが、観衆の性的感情を扇るポルノ・ショーは遙かな古代より存在し、踊りは、宗教共同体の制度的要請以外に、性的嗜好の商品提供の面を持っていた。また、文章としてのポルノや、エロティシズムを満たす絵画などが商品ともなった。

今日においても、性と性愛の扇情を目的とする経済的活動は存在する。日本を含む先進国では非合法なものとして、人身売買組織やチャイルドポルノ制作集団が存在する。合法的な枠内でも風俗産業が存在し、ストリップショーを見せたり、マッサージを行ったり、個人の交際の形をとった売春などが組織的に行われている。アダルトゲームアダルト雑誌などもまた、メディアの巨大化と相俟って、性の風俗産業として、世界中で流通し繁栄している。

ここまで露骨な形でなくても、性の商品化は経済の隅々に及んでいる。女性アイドル歌謡の中に性的な仄めかしが存在することは夙に指摘されており、フェミニストの中には、美人コンテストも性の商品化の一端を担っているとして指弾する人々もいる。

性と生殖との分離[編集]

売春は性の「快楽」部分の切り売りであるが、20世紀に入って産児制限殊に避妊法が広まるまで、性と生殖を効率よく分離することはできなかった。近代的で安全な避妊法の確立により、性の可能性が広がり、性の快楽や性のもたらす心理的・身体的な満足を、妊娠・出産・育児から切り離して享受できるようになり、純粋に性を楽しむことができるようになったのである。一方、生殖そのものの重要性が見失われているのではないかという問題が現れている。宗教・倫理を根拠とする立場や、少子化による国家/民族の人口減少を問題にする立場、「子供がかわいくないのか」と母性の喪失として捉える立場などがある。

性の多様性と健康[編集]

性をめぐっては、同性愛異性愛への嗜好の問題が古代より存在した。今日それは性的指向の問題として、またレズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスセクシュアルのいわゆる LGBT の問題として社会の関心を集めている。

生物的な性別とは別の「社会的・文化的性別」の存在、すなわちジェンダーの問題が20世紀に入ってより議論されてきた。フェミニズム運動や、性差別の問題も今日的な社会の課題として人々の前にある。個人の性的嗜好の多様性も、変態性欲として異常と見なすだけではなく、人それぞれの生き方の問題であるとして、正常と異常ではなく、性をめぐる生活健康、性生活の質の問題とする見方が出てきている。

性をめぐる様々な位相は、まことに多様多彩である。21世紀の始まったこの最初の十年紀において、過去の偏見から脱し、過剰で過激な一方的な主張に組みすることもなく、性をめぐる正しい理解が進むことが望ましいとも言える。その為には、人間の性がいかに複雑で多様な位相を持つかの認識が必要である。

性の研究[編集]

人間の性についての科学的な研究を「性科学」(fr:Sexologie)と呼ぶ。これは非常に広い範囲の学際的な研究であるが、各種の分野で別個に研究されている実情があり、総合科学としての展望はなお困難である。

日本においては、セックスセラピーなどの領域を扱う応用科学としての性科学が漸く市民権を得つつある。

参考書籍[編集]

  • エーリッヒ・フロム 『愛するということ』 紀伊國屋書店
  • エーリッヒ・フロム 『悪について』 紀伊國屋書店
  • エーリッヒ・フロム 『正気の社会』 中央公論社
  • ジョン・C・エックルス 『脳の進化』 東京大学出版会
  • ジョン・C・エックルス 『脳と実在』 紀伊國屋書店
  • ジョン・C・エックルス 『脳と宇宙への冒険』 海鳴社

関連項目[編集]