ゲーム理論

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ゲーム理論とは、フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンの『ゲームの理論と経済行動』を嚆矢とする学問領域である。
ゲーム理論には「初等ゲーム理論」と「一般ゲーム理論」の二種類があり、現在得られている成果の殆どは、初等ゲーム理論によるものだが、行動経済学のような新しい試みもある。

概要[編集]

初等ゲーム理論は「順序付け可能な単一の利得に価値は帰着する」「各プレイヤーは(ステークホルダーは、自身が得る利得を際高することのみを目的としてプレイする」の二点を前提とする。この初等ゲームにおいても、混合戦略のような興味深い結果が得られている。

一般ゲーム理論[編集]

初等ゲーム理論では、順序付け可能な単一の利得に「価値」に帰着することになっているが、「うちの飼い犬が殺された」という場合では、「市場的価格」と「飼い主にとって価値は異なっている。そのため、一般ゲーム理論においては「複数の価値が競合しているがどちらも切捨てられず、加法的でもない」場合がある。 また、一般的な社会行動においては、「複数のプレイヤー(ステークホルダー)がおり、各プレイヤーは自身が得る利得を最大にすることのみを目的としてプレイする」わけではない。「損して得取れ」という言葉もある。 さらに、コミットメントを担保する方法が乏しいというか弱いというか、たとえば統一教会エホバの証人だったら神権的戦略の一種だと思っているから嘘なんか吐き放題である。アメリカだと聖書に手をついて「真実のみを証言する」ことを誓うわけだが、アメリカのエホバの証人だったら「あの聖書は新世界訳じゃなくて共同訳だったからナシ」とか、「あれは聖書じゃなくてメルヴィルの『白鯨』でした」とかが(もちろん州と宗派によるが)ありかねないのがアメリカという国だ[1]。 ゲーム理論の開拓者であるフォン・ノイマンもこの点は気にかかっていたらしく、「核軍縮ゲーム」な場合は抑止力になるかもしれないが、社会に初等ゲーム理論がはびこると「自分が利得を得られるなら、他人のことなんかは気にならないよ」という「ロビンソン・クルーソー的態度」が蔓延するかもしれないと心配していたらしい。 じつのところ「国連」というのは「戦勝国クラブ」であり、中国は中華民国を追い出してその椅子に座り、ソビエト連邦は崩壊してロシア共和国がその椅子に座った。そんな状況において行われる国際ゲームでは、初等ゲーム理論で得られた知見はさして有効ではない。
「ホンネとタテマエ」というのは悪いことだと思われがちだが、ホンネは判断原則でありタテマエは行動原則である。だから乖離していると世間様に迷惑なのだが、国家はホンネに合わせてタテマエを変えてしまうから困るのだ。プレイヤーがゲームのルールに違反したらどうするかというルールに違反したらどうするかというルールに違反したらどうするかというルールに違反したら …… といった無限連鎖が起きてしまう。
このあたりの困難の克服が、一般ゲーム理論の課題ではある。

用語[編集]

「完全情報ゲーム」「ゼロ和ゲーム」「混合戦略」「BATNA」などがあるが、普及していないのが残念である。

完全情報ゲーム[編集]

チェスオセロのような、「隠されたデータが何もない」ゲームトランプ麻雀は「引いてみないとわからない」ので、「非完全情報ゲーム」と呼ばれる。

ゼロ和ゲーム[編集]

「勝つ」を一勝とし、「負ける」をマイナス一勝とすると、足してゼロになる。こういうゲームをゼロ和ゲームという。和がゼロではないゲームを「非ゼロ和ゲーム(「非零和ゲーム」とも)」という。競馬などの公営ギャンブルは、寺銭を抜かれるので非ゼロ和ゲーム(マイナス和ゲーム)である。これに対して、商取引の交渉は「売り手よし、買い手よし、世間よし」という正和ゲームであるので、双方の BATNA の間の「落としどころ」を探るゲームである。

混合戦略[編集]

じゃんけんが好例である。「ランダムに手を出す」というのが混合戦略である。

BATNA[編集]

限界譲歩点。相手の「足下を見る」と長期的な取引が難しくなるので、先にバラしちゃって「で、おたくは?」という大胆な手はけっこう使える。「相手に恩を売っておく」「損して得取れ」みたいな話であり、人物と将来性と企業体質を見抜く眼力が試されるところである。かつては「ポコペン(原価割れ)」とも言われ、生鮮食品、とくに鮮魚は売れ残りは産業廃棄物になってしまって、「仕入れの読みが外れた」わけだから世評も落ちる。そこで「えぇい! 持ってけ泥棒!」と言って投げ売り(損切り)することも多々ある。「明日は休場日(市場が休み)」というときの閉店間際にバッカンとかクーラーバッグとかをザックに詰めてアメ横とか築地の場外とかにバックパッカー風の格好で買い漁ってゆくルパン三世のような人もいる。食いきれなさそうだったら、下ごしらえとかしてご近所さんに配るというのが義賊である[2]

選択肢[編集]

「右手と左手のどちらを失うか」みたいなことを訊かれても堪えようがない。いわゆる「トロッコ問題」などはその手のゲームだ。
鈴木光男は、「ゲーム理論は開かれた未来に対して延びる枝のうちのどれを選ぶか」であり、「他の枝はぜんぶ切る」ので「選択枝」という表記を提唱している。
ただし、人類は同じ世界樹のそれぞれの枝を登っているわけで、「切る」ではあっても「伐る」ではない。プーチンや習近平は平然と伐るだろうが。

参考文献[編集]

  • フォン・ノイマン、モルゲンシュテルン著/銀林浩ほか監訳『ゲームの理論と経済行動』(ちくま学芸文庫、2009)

脚注[編集]

  1. こうなるとヤクザと右翼と警察の三つ巴の拮抗関係日本の治安の良さを担保していたのかもしれない。
  2. ただし、そういう場所にクラリスはいない。読み筋は『ルパン三世 ― カリオストロの城』


関連項目[編集]

その他[編集]