ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)

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フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトル・アルベルト・フォン・プロイセン(独:Friedrich Wilhelm Viktor Albert von Preußen)とは、ドイツ帝国最後の皇帝及びドイツ史上最後の君主。

生涯[編集]

1859年、ドイツ帝国の首都ベルリンに生まれる。母はヴィクトリア女王の長女で、父はフレードリヒ3世である。また、後に第一次世界大戦で戦うこととなる大英帝国のジョージ5世、ロシア帝国のニコライ2世と従兄弟である。幼少期のヴィルヘルムは容姿端麗で勉強熱心、愛国的な少年であり、周りから将来をかなり期待されていた。一方で、高慢で喧嘩屋・ナルシストな一面もあったようである。

1888年、祖父と父が相次いで崩御したため、若干29歳にしてドイツ帝国3代目皇帝に即位した。ヴィルヘルム2世が成し遂げた偉業は次のとおりである。

  • ビスマルクがウザかったので解雇。
  • 自分のイエスマンを首相に任命、政策が失敗すると責任を押し付け辞任させる。
  • 建艦競争&3B政策でイギリスに喧嘩を吹っかける。
  • 民族主義を重視して瀕死のオーストリアと手を組み、ロシアと関係悪化。露仏ニ正面に挟まれるという禁忌をしでかす。
  • 黄禍論を打ち出し、大日本帝国を始めとするアジア人に嫌われる。白人からも非難される。
  • 二度に渡ってモロッコに上陸しフランスを牽制するも英仏の結束を固くするという大失敗に終わる。
  • アフリカの植民地争奪戦に首を突っ込み欧米列強の大変を敵に回す。
  • 労働者を保護する新航路政策を打ち出すも、議会で票が伸びなかったためキレて中止。
  • 同盟相手の中でもオーストリアを厚遇しイタリアを冷遇したため、密約で裏切られる。

1914年サラエボ事件を発端に第一次世界大戦が勃発する。ドイツ帝国はフランス・イギリス・ロシアの3大国に挟まれて絶体絶命と思われたが、シュリーフェン・プランという僕の考えた最強の作戦でかなりの健闘を見せる。しかし、マルヌの戦いで敗北しパリ攻略に失敗。ロシアとの戦いも優位に進めていたが冬将軍で徹底的な打撃は与えられず。戦線は膠着した。

大戦後期にはルーデンドルフヒンデンブルクといった軍人に政治権力を奪われ、存在感が薄くなってしまった。皇帝にも関わらず軍人に文句を言うと罵倒されてしまう始末だった。無制限潜水艦作戦も災いして1917年にはアメリカが連合国側で参戦。ドイツの勝利は絶望的になっていく。

1918年11月ドイツ革命が勃発。ヴィルヘルム2世は退位し中立国オランダへ亡命した。晩年のヴィルヘルムは城館に住み、木を切ったりして穏やかな余生を過ごしたそうだ。1939年ナチスドイツポーランドに侵攻し第二次世界大戦が発生すると喜び、ヒトラーを褒め称えた模様。1940年には彼の住むオランダにもドイツ軍が侵攻してきたが、ここで彼はドイツ国防軍の保護を受けている。1941年6月4日独ソ戦の開始直前に死去。享年82。

同時代の世界首脳[編集]

関連項目[編集]