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ルーマニア鉄道

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
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ルーマニア鉄道(ルーマニア語:Căile Ferate Române,略称:CFR(読み:チェ・エフ・エル))とはルーマニアで鉄道事業を行う国有鉄道会社である。1998年7月7日に政令によって再編され、同年10月1日に7つの会社が設立された。

ロゴ

歴史[編集]

始まり[編集]

現在のルーマニアの鉄道網の中で最も古いのはオーストリア帝国に当時ウィーン直属の王領だったバナトに建設され1857年11月15日に開通した。この路線は、ティミショアラジンボリアキキンダセゲドの各都市を112㎞にわたって結んでおり、ティミショアラからウィーンまでの所要時間は36時間であった。バナト炭鉱・鉄鋼鉄道(オラヴィツァ=アニナ線)が1856年に開業し、アニナからの石炭が輸送された。ルーマニア王国内での最初の鉄道路線は1864年にイギリス人のジョン・トレヴァー・バークレー率いる会社によって建設された。この路線は1869年8月26日に開通し首都ブカレストドナウ川沿いの町ジュルジュを結んだ。1866年に議会はホーエンツォレルン皇太子カロル1世と親交のあったドイツ人のベテル・ヘンリー・シュトラスベルク率いる民間コンソーシアムに利権を与え、2路線の建設を開始した。一つはブカレストからピテシュティを経て南西部への路線、もうひとつはブザウブライザ、ドナウ湖畔の港ガラツィそしてを結ぶ東部及び北東部へのロマン (地名)へ向かう路線である。1868年にこの目的のためにブカレストにブカレスト北駅という巨大な駅が建設された。 この路線の最初の区間のピテシュティからロマンまでの区間が1872年9月13日に開通した。ハンガリー国境のヴァルチオロヴァまでの西側区間の建設は創業者の事故で少し遅れ1878年5月9日に開通した。このハンガリーの鉄道路線との接続のおかげで、1883年6月5日よりパリからウィーンブダペスト、ブカレスト、ジュルジュまでオリエント急行が走行できるようになった。

同時に北東部にも鉄道路線が建設された。1867年ヴィクトール・オーフェンハイム率いるコンソーシアムのオーストリアレンブルク・チェルノヴィッツ鉄道は1864年からガリシア地方に存在していたチェルナウツィ=スチェアヴァ線を当時のオーストリア領ブゴヴィナ地方に延伸する利権を与えられた。1868年にこの会社はルーマニア議会から同線をモルダヴィアイアシまで延伸する許可を受けた。この会社はレンブルク=チェルノヴィッツ=イアシ鉄道(K. k. priv. Lemberg-Czernowitz-Jassy railway company)と呼ばれ、オーストリア線とルーマニア線に分かれていた。イアシまで開通したのは1871年のことだった。株式市場の投機と管理の不備などの理由で建設に欠陥が生じ、のちに何度か事故が起こった。1872年10月7日、オーストリアの区間は国の管理下になった。

1873年ウィーン証券取引所で起こった創業者の破綻は南東ヨーロッパの鉄道全体を一時的に深刻な財政難に陥った。ハンガリーの鉄道網に2つの接続がされたのは1879年のことで、南西のオルショヴァ付近のオーストリアの私鉄とプレデアール峠を超えてトランシルヴァニア方面へ向かうハンガリー東部鉄道の2つであった。1880年、ヴァルチオロヴァからロマンまでのシュトラスベルク鉄道は議会令によって国有化され、それでCFRが設立された。またレンブルク-チェルノヴィッツ-イアシ鉄道は事故や不祥事が多発していたため1888年に国有化された。そしてルーマニアがベルリン会議 (1878年)ドブロジャ地方を獲得し、1889年にはルーマニア王国全体の鉄道網の総延長は1377㎞に及び、全てCFRの管理下におかれた。

大ルーマニアにおけるCFR[編集]

1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が解体され、1919年パリ平和条約でルーマニアが多くの土地を獲得した後(バナト、トランシルヴァニア、ブゴヴィナ、ベッサラビアなど)、鉄道網も大幅に拡大し、大ルーマニアの時代となった。近代化の第一段階は戦間期に始まった。例えばディーゼル機関車が使用始められた。さらにベッサラビアではそれまでロシア帝国領だったためロシア軌間であり、標準軌に改軌する必要があった。

共産時代[編集]

第二次世界大戦後、ルーマニアはソ連の傀儡国家となりルーマニア人民共和国が成立した。1950年代から1960年代にかけて主要路線は電化が開始され、最初の電化はブカレスト-ブラショーヴ間(プロイエシュティ-ブラショーヴ線)で電化された。蒸気機関車による運転の多くは1970年代に廃止された。1979年に開通したブカレストメトロは当初は国営だった。1989年チャウシェスク政権が崩壊した後、メトロレクスを運営する会社が設立された。

冷戦後[編集]

1989年と1990年東側諸国西側諸国の間で鉄のカーテンが開かれ、東側諸国は崩壊した。ルーマニアの一般的な変革の困難と同じく、CFRもイメージの失墜に伴う困難な時期を経験した。行政機関が大幅に削減された後、CFRは1990年代に財政難を徐々に克服することができた。

ルーマニアは2007年1月1日EUに加盟した。EUは凡ヨーロッパ回廊に多額の投資をしている。4号線、7号線、9号線はルーマニアにとっては重要である。

現在のCFR[編集]

組織[編集]

1998年末に再編されて以来の組織は以下のとおりである。

  • Compania Națională de Căi Ferate CFR SA
  • Societatea Națională de Transport Feroviar de Călători CFR Călători SA
  • Societatea Națională de Transport Feroviar de Marfă CFR Marfă
  • Societatea Națională de Administrare a Activelor Feroviare SA(SAAF)
  • Societatea Feroviară de Turism SA(SFT-CFR)
  • Societatea de Management Feroviar(SMF)
  • Autoritatea Feroviară Română(AFER)

路線概要[編集]

電化路線の大半は060EA型電気機関車が担っている。最初の10両はスウェーデンASEAが製造した。その後、この車両はクライオヴァのエレクトロプテレがライセンス給与を受けて大量製造しユーゴスラビアブルガリアも発注した。複線区間では右側通行、電化路線は交流25㎸50Hzで電化されている。2003年にCFRはシーメンス製のDesiro車両を発注した。この車両はSăgeata Albastră(サジェアータ・アルバストラ、訳:青い矢)と呼ばれ、ローカル輸送を中心に活躍している。

列車種別[編集]

CFRは3種類の列車を運行している。Regio(R、地域列車)、Interregio(IR)、インターシティ|Intercity]](IC)に加え夜行列車のInterRegio Noapte(IRN)がある。運賃は列車の種類によって大きく異なり地域列車の乗車料金はインターレギオの半額である。

鉄道網[編集]

鉄道網の総延長は20730㎞でそのうち3292㎞が電化され、2707㎞が複線区間である。しかし西欧とは異なり列車での移動は自動車での移動より遅い。その理由は1989年以降鉄道インフラへの投資がほとんどされていないためである。最も重要な幹線での最高速度は時速100㎞でかちては時速120㎞で走行できるところも多かった。ブカレスト-コンスタンツァ間で現在時速160㎞で運転できるように工事中である。EU加盟後、補助金を利用して低速路線が解消されたものの補助金をうまく活用しているとは言い難いらしい。

2022年2月24日ロシアによるウクライナ侵攻を受けCFRは難民がルーマニアに到達しやすくなるようかつウクライナへの支援物資を輸送しやすくするように国境を越える鉄道路線クラスナ-ファルチウ-プルート(モルドバ)間の鉄道を整備し、2022年3月中旬には運転を再開した。

車両[編集]

ルーマニア鉄道の車両

外部リンク[編集]

関連項目[編集]